2017/8/12(土)18:45

雑務に埋もれる今年の夏。どこにも行けない。

2017/8/3(木)14:32

気づけばもう8月。七月始めは上野の森美術館に石川九楊さんの展覧会と講演会を聴きにゆく。21日に掛川のSさんが上京されたので浅草の居酒屋でごはん。ハムカツを食べる。隅田川までそぞろ歩き。22日に祇園祭の後祭の宵山を見に京都に戻る。23日はイノダ本店でココアフロート。レモンアイスをうかべたアイスココアが美味しかった。宵山は歩行者天国も屋台もない、こじんまりとした雰囲気で、鉾町を気ままに歩く。私はこっちの方が好きかも。大船鉾にものぼった。路地の先の軒先で、ずらりと並んだお守りや手拭なんかを浴衣姿の女の子たちが歌を歌いながら売っていて、その歌が「♪あねさんろっかくたこにしき〜♪」と似た音律で、なかなかよいなと思っていたら、夜、Facebookでバリバリ京都ネイティブの大学時代の友人が歌詞を教えてくれた。「♪宵山のお守りさん 常(つね)は出ません。今晩限り。蝋燭一本献じられませ♪」

東京に戻ってから、歌舞伎を見にゆく。千秋楽。海老蔵が素晴らしかった。

2017/6/26(月)20:00

先週の24(土)にグループ展「こんな絵を描いた」終了しました。お越し下さったみなさま、気にかけて下さったみなさま、ありがとうございました。考えてみるとグループ展は初めてでした。楽しかったです。最終日にはかつての教え子たちが元気な顔を見せてくれたのも嬉しかった。ありがとうございました。

さて。これからどうするか。私はいままで、展覧会が終わる度「今後の抱負」を宣言してたのですが、今回は特にありません。新作を描くのは楽しかったし、一人一点でいいのに、私だけ二点も描いてしまって、やる気満々な感じでしたが、昨年の二人展のときから少し時間が経ち、万太郎について必要以上に熱くならなかったからかもしれません。

2017/6/21(水)20:31

夏至。

先週からグループ展「こんな絵を描いた」が始まった。2014年6月から、毎年二回、人形町のギャラリー、人形町ヴィジョンズで開催されたイラストレーションの二人展の総集編。旧作一点と新作一点をイラストレーター11人が持ちよりました。先週の土曜日には10人でのトークショーも。人数が多いので、話す側>お客さん になったらどうしようと心配でしたが、伊野さんの仕切りと森さんのボケと日下さんの場外からのツッコミと、何より温かな聴衆のみなさんのおかげで、和やかな雰囲気で終えることができました。よかった。作家のNSさんが私の万太郎の絵を見て「(一子さんの)お墓に持ってってみせてあげたい」と言って下さった。(その一子さんと万太郎は実は同じお墓には入っていないらしい。)ほかのメンバーのも力作ぞろいです。まだの方はぜひぜひ。24日(土)まで人形町ヴィジョンズで。

2017/5/29(月)23:28

どこにも行けないままGWが終わり、その代わり、中旬から金沢〜京都〜大阪〜掛川と一気に出かけてきた。北陸新幹線で行った金沢ではFさんが参加している「金魚美抄展」を見に21世紀美術館に。初めてだったけれど、タレルの作品もあり、がんばってる美術館、という感じ。近江町市場で回転寿司を食べ、そのまま京都へ移動。翌日は京都国立博物館で開催中の海北友松展を見て、翌日は大阪で友人Mさんと中之島の図書館のなかにできたデンマーク料理の店でご飯。翌日は東京に戻る途中で掛川のSさんちに寄り、一泊させていただく。新茶の季節の掛川のみどりが晴天の下、うつくしかった。東京に戻った翌々日は錦糸町で職人さんたちととある打合せのあと、同業者のMさん×2と南インド料理。土曜日はさそわれて表参道の「本の場所」で川崎徹さんの朗読会、そして昨日の日曜日はJK組の方達と文楽の会。同年代の女性たちにそれぞれの場所で会い、それぞれ共通なのが「そろそろ終の住処をどうするか」ということで、私はまだ考えられないけれど、トシとともに確実に体力が落ちてきているので、動けるうちに動いておかねばとも思ったり。

2017/5/4(木)17:48

もう五月。備忘録。4/18G8委員会、4/19骨盤調整ストレッチののち、Kさん事務所へ打合せ。4/20はS社に作品引き取りと、ついでに編集のKさんとランチ。京都コロナのサンドイッチを神楽坂で食べた。4/21は病院のあと、清澄白河で一期生のDの個展に寄る。三年ぶりの彼女は人妻になっていた。大学を辞めたいきさつについて、誤解されていたので修正。ずいぶん傷も癒えたのか、笑って話せるようになってる。4/22〜23は知り合いの知り合いのお誘いで茅野での音楽の集いに参加。45人分の食事をつくるお手伝いをさせてもらったり。翌日、東京まで車で送ってくれた先生はその夜ドイツに飛ぶ予定で、その前の週はニューヨークから帰ってらしたばかりだった。タフ。4/24からの週は、こまごまと雑用を片付ける等。ゴールデンウィークは特に予定もなく。4/28は久保田展がご縁で知り合った活版の先生と、とある企画の打合せを神保町で。仕事じゃないけれど、楽しいものができそう。5/3は大学の恩師が上京されていたので、神保町でごはん。サシで食事したのは初めてだった。昔話や、苦労話をからからと笑って話せるのがありがたい。七月にまた楽しい予定ができた。

2017/4/18(火)13:07

先週末、3年振りに京都に桜を見に帰ろうかと思っていた。でも新幹線での移動が心配で諦めた。いただきものの竹の子を茹でたり、猫にハーネスをつけてベランダを散歩させてみたり、など。

2017/4/14(金)11:56

先週から近所のスポーツセンターの骨盤調整の教室に通いはじめた。これがことのほか、気持ちよくて良い。ずぼらな私にはちょうどいい運動。

で、この教室から帰ってきたとき、ツイッターでの私の発言が今までにない勢いでRetweetされてることに気づく。

実は今年の二月に関わらせていただいた『はじめまして物理』(吉田武著/東海大学出版部)が出版されたのだが、その中のいくつかのイラストについて、某界隈(物理とは違う分野)で話題になっているらしい。この本は『はじめまして数学』(リメイク)に続く著者渾身の一冊。どんなきっかけにせよ、話題になるのは嬉しいし、これをきっかけに「物理」という現実的で深みのある世界(自分の語彙力のなさにゲンナリするけど)に興味を持つ若い人たちが増えてくれたら嬉しいなと思う。世界が混迷してるこんな時代だからこそ。(と、大きなことも言ってみる)。

2017/4/6(木)16:49

嬉しいお知らせ。『久保田万太郎の履歴書』吉祥寺の本屋「百年」さんと、荻窪の本屋「Title」さんで扱っていただけることになりました。お近くに行かれた際はぜひお立ち寄り下さいませ。

2017/3/29(水)16:32

京都から東京に戻ってきてる。京都の備忘録。大徳寺の聚光院で公開中の狩野永徳の花鳥図を見た。大徳寺から市バスで東山まで抜け、百万遍でZ先生の、大谷で友人の墓参りをし、祇園まで歩いて川端丸太町のクウカイでMさんとご飯。東山通りは派手な着物をレンタルで着こなす東南アジアの方々であふれていた。桜はまだ。柳の新芽が美しかった。翌日は大阪西天満まで銅版画家の集治千晶さんの展覧会を見にゆく。少し離れた中崎町でも同時開催中の展示があると教えてもらい、徒歩20分かけて歩いてゆく。都島通りを横切り、初めて歩いたエリア。父が昔努めていたのが都島中学だったので、近くかと思ったが全然違った。大阪は嫌いな街なのに、いつも歩くと懐かしくなる。京都よりも、水が合う気がするのは、そろって大阪に職場があった父母のせいかもしれない。父母との子供の頃の記憶はほとんど大阪、キタだった。小さな頃、メーデーの日に集会に出る母に連れられていった扇町公園はまだあった。扇町ミュージアムスクエアはなくなっていた。30年前に勤めていたパッケージデザイン事務所があったビルはなくなっていた。隣の雑炊屋はまだあった。当時、関テレがあった跡地は広い駐車場になっていた。上等カレーの店を二軒見つけた。夕方、街中に流れる曾根崎警察からのお知らせは、日本語、北京語と韓国語だった。頭の上からふってくる異国の大音量の言葉に、ここがどこなのか、一瞬わからなくなる。中之島の珈琲屋でカレードリアを食べる。ジャズが流れる店内。ぼんやりホットケーキを食べてる白髪のルーズな服の年配女性。きめ細かく対応してくれる、中年の店員さん。全てが大阪っぽい。たぶんこれからも大阪で暮らすことはないと思うが、一番懐かしくて泣きたくなるのは大阪。

24日に東京に戻り、いろいろ雑事をこなす。昨日の火曜日はフランス映画『未来よ、こんにちは』を有楽町に見にゆく。観客に同年代の一人もの女性の比率高し。主人公のイザベル・ユペール演じるところの50歳代後半の哲学教師の台詞「40歳をすぎると女は生ゴミ」に笑った。その通りかも。25年連れ添った夫に好きな人ができたと出てゆかれ、認知症の母が亡くなり、子供たちも独立。仕事もイマひとつパッとせず、かつての教え子は「自分の頭で考える」彼女の教えを忠実に守って彼女の考えとは違う道をゆく。その全部をそのまんま諦めながら受入れる、前向きな諦観を感じる映画だった。

2017/3/21(火)20:57

三連休が終わり、今日京都に戻ってきた。連休中は卒業生の家におよばれして晩ご飯の会、翌日は親類のお墓参りで横浜へ。世代の違う人たちと会って楽しかった。

2017/3/13(月)14:23

あっという間に弥生も中旬。備忘録として3/2TIS総会、3/5橋本麻里さんのトークイベント(大徳寺聚光院の狩野永徳の花鳥図と京都国立博物館で4/11からスタートする海北友松について。)3/6〜3/11は確定申告を提出したり、四谷三丁目に井上洋介さんの展覧会に行ったり。3/10は吉祥寺の百年にササキエイコさんの展覧会を見に行き、ついでに荻窪の本屋タイトルさんにも立ち寄る。3/12はトーハクに春日大社展を見に行った。京都に住んでいたのに、奈良にはほとんど行ったことがない。春日大社の何たるかすら、ほとんど無知だったが『春日権現験記絵』の美しさに目を見張った。宮内庁で管理されていたからか、まだ国宝指定されてはいないが、漂う品格といい、色調の美しさといい、間違いなく国宝級。そのほか、鎌倉時代の武具等、国宝がずらりと展示され、眼福。四対の狛犬&獅子も愛らしかった。

2017/2/27(月)20:26

先週の金曜日に東京に戻ってきた。プレミアムフライデーだそうです。週末の夕方は仕事の合間に江戸川区まで散歩。荒川の土手まで小名木川沿いに歩き、そのまま北上。新大橋通りの橋を江戸川区に渡り、江東区側からあれはなんだろう?と気になっていた塔(タワーホール船堀)まで歩いてみた。特に面白いところでもなかったので、さっさと出てきて、帰りは再び新大橋通りを江東区に渡り、そのまま大島まで戻り、最近見つけたパキスタン料理の店でビリヤニを食べてきた。インド人家族(子供を含む10人)に、インド人かパキスタン人の店の人が三人。テレビの画面にはあちらのMTV。ここはいったいどこなのかと見紛うほど。近くに出来たインド食材の店にも入ってみたら、見たこともないカレーやスパイスばかりで店員も客もみんなあっちの方。帰り道、歩いてると、道ばたでさっきの店の店員が自転車で追い越しながら「あはは〜。ども〜」と挨拶してくれた。ちなみに近くにある保育園は園児が全員あちらの方。道ばたでの奥さま同士の会話ももちろんあっち語。だから何だという話だが。

2017/2/23(木)13:03

一昨日の火曜日は久しぶりに大学の恩師の先生たちとの集い「三火会」に出てきた。卒業生の経営する、京都のとある店で毎月開かれている集い。久しぶりにお会いするT御大もお元気そうだったし、師走以来のTボさんも相変わらずおかしかった。話が佳境に入ったところで、店のテーブルの上にぶら下がってるライトの光がほわ〜んと暗くなったり、明るくなったり。ちょうどそのときみんなで3年前に亡くなった「彼」の話をしていたのだけれど、みんながあいまいな記憶で話す内容に「それ、ちゃいますよ」とでも言いたげに、絶妙なタイミングで点滅する。「いまKさん、来てるかも」と誰かが言って、みんなで「ほんまや。来てるわ。」と笑い合った。きっと彼は来てた、と思う。
帰り道に終電に遅れそうな私に後輩の女性たち(三人)がタクシーの後部座席にツメツメに座りながら「駅まで乗ってって下さい!」と言ってくれ、前の座席の乗り込む。信号にもひっかかることなく、3分で三条駅着、ダッシュで最終電車に間に合った。ラッキー。なんだか楽しい夜だった。

毎月は行けないけれど、先生たちに会える場があることがほんとうにありがたい。これからもできるだけ帰ってこようと思った次第。

2017/2/22(水)13:35

今日は猫の日。

先週から京都に戻ってる。卒展を見るためと、その他の雑務のため。

卒展について、ここ2年、体調のこともあり見ることができなかったので、3年ぶり。学科になり、私が関わった人たちはもういない。部外者として見る久しぶりの卒展。会場では懐かしい人に会えたり、卒業生の幾人かに声をかけられたりした。

卒展の感想は一言では言えないが、一番感じたのは、学科に「大学っぽさ」がなくなったことだった。作品のクォリティはそれなりにあるものの、芯になる「言葉」が見えてこない。背伸びして青いことを言ってみたり、冒険したり、そんな、大学ならではの「青くさい熱」をあまり感じなかった。みんなそれなりのクォリティでそこそこ「それっぽく」はあるのだけれど。そして(これが一番残念だったのだけど)「本」で面白いものがなかった。「イラスト&ブックス」というゼミがあるのに、本とがっつり向き合ったものが(私の憶えている限り一冊も)なかった。もしかすると今の若い人には本というメディアはもう古すぎるのかもしれない。そんなことはない、と思いたいけれど。

帰りに京都会館の上に出来たカフェでお茶。卒業生に声をかけられた。最後は川端丸太町の利酒師のiさんの店のカウンターで、下戸のくせに烏龍茶とおばんざいでご飯。良い夜だった。

2017/2/14(火)17:52

備忘録。2/5は国立劇場に文楽『平家女御島』を見に行った。2/10は掛川からSさんが来たので神保町でご飯。2/9は地元のコメダまで編集の方が来てくれて打合せ×2件。2/12は亀戸〜錦糸町〜両国まで散歩。北斎美術館の位置がわかった。13300歩。あとはだいたい仕事。

そういえば、友達と同じ職場の人と顔本で繋がっている(会ったことはない)のだが、その人が久保田万太郎の縁戚だということがわかった。一人息子の耕一くんの奥さんの姪になるそうで、本ではわからない身内ならではのお話をいろいろと教えて下さった。不思議なご縁。久保田本をお送りしたところ、とても喜んで下さった。

2017/1/30(月)12:24

備忘録。1/15は青山の「本の場所」へ南伸坊さんのお話を聞きに行ってきた。1/21はアサビへ日下さんのタイポグラフィセミナーを聞きに行き、懇親会に参加。文字方面の方達とお話する。(当然ながら、異界の方々との交流は知らないことをいろいろと教えてもらえて楽しい。)28日は三期生の女子三人と浅草で昼から牛鍋。ともすれば考え過ぎて立留ってしまうこともあるお年頃の彼女たち(27,8歳)。これからの人生何があるかわかりませんから、決めすぎなくていいよ、とちょっと先生っぽいことを言ってみたり。ここ数年、ほとんど学校関係者には話したことがなかった自分のことを、言ってみたり。ここ数年、バランスを取ることばかり考えていた私の対処方法は間違っていたのかもしれないなと思ったり。私は私がどう感じたかを、素直に言葉にしておく必要があったのかもしれないなと思ったり。(たり、ばかりですみません。)
そして昨日は若い人たちのお薦め「この世界の片隅に」を見に行った。うまくまだ消化できてないけれど、泣ける映画でした。見られて良かった。

2017/1/11(水)15:41

遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございました。年明けに京都に戻り、5日の夜行バスで再び東京に戻り、そのまま日常に戻りました。
ひとつ、お知らせ。今年から東京イラストレーターズ・ソサエティの会員になりました。もうひとつのお知らせ。ついにスマホデビューしました。今年の目標は毎日8000歩以上歩くこと。(スマホの万歩計が便利)年末に会った70歳代のT御大が犬の散歩等でここ数年、毎日平均8000歩ほど歩いていたのを知り、私もがんばってみようかと。どうなりますことやら。

2016/12/26(月)14:52

備忘録。先週金曜日は「贅沢貧乏」の公演「てんてん」を見に行き、土曜日は一期生が声をかけてくれたので恵比寿でランチ。京都から来ていたT先生も一緒に、ちょうど一期生の村上実帆さんが麻布で展覧会をしていたのでみんな(といっても5人だが)で移動。久しぶりの大学のあの雰囲気が楽しかった。日曜日は千葉に浦上玉堂を見に行く。思ったよりも小さい作品。長男、次男の作品も展示されていたが、やっぱりおとっつぁんのが一番好き。月曜日は仕事をし、20日の火曜日は昼から文学座の公演で久保田万太郎の「舵 かどで」を見に行った。終わったあとで荒木町まで歩いてみんなでお茶、その流れでJKさんとINさんと四谷の韓国料理の店でご飯。ポッサムキムチが美味しかったので買って帰る。今年は久保田に明け、久保田に終わった年だった。(まだ家の中は展覧会の後片付けができてないけど。)翌日の夜行バスで京都に戻り、23日はお墓参りのあと、Mさんと高橋克也くんの個展に行きクウカイでご飯。早めのバースデープレゼントにトマトジュース720mlのを二本貰う(すごく美味しかった)翌日は大阪で一期生の藤本麻野子さんの個展を見て、25日は再び京都に出て雑用を片付ける。いろんな人に会い、いろんな話ができた。クリスマスらしいことは何ひとつしなかったけれど、こういうのも悪くない。

2016/12/16(金)11:46

昨日は術後二年目検診の結果を聞きに行ってきた。「大丈夫でした」との先生のことばにホッとする。まだ先は長いけれど、まずは一区切り。帰りに豊洲のトンカツ屋でささやかにお祝い。自分のなかで、しばらく四足動物×揚げ物を禁じていた。サクサクのヒレカツは美味しかったけど、以前よりもケモノっぽく感じた。

2016/12/7(水)20:46

あっという間に二人展も終わりました。いろんな方に感想をいただき、とても幸せな2週間でした。観に来て下さった方、気にかけて下さった方、ありがとうございました。搬出からもう10日以上経つのに、家が全く片付かないまま、遅れていた仕事に埋もれております。一年半かけて準備して、いつもと違う形でいつもと違う画材とサイズの絵を描いて、これが一体、何になるんだろう?と思いつつも、とても充実した楽しい経験でした。こんな機会をもらえたことに、感謝。久保田万太郎さんについても、ずいぶん詳しくなれたし。さて、祭りはいつかは終わる。少しずつでも日常に戻していかなくては。

2016/11/14(水)10:28

明日から展覧会『久保田万太郎と芥川龍之介』がはじまります。漆原冬児さんとの二人展です。11月26日まで、12時から19時、最終日のみ17時。20日には作家の関川夏央さんと俳人高山れおなさんとのトークショーもあります(先着50名/事前申し込み必要)(サイトの更新が難しく、リンクできないので、興味のある方は「人形町ヴィジョンズ」で検索してみて下さい。)

一年半前にテーマをもらって以来、久保田万太郎についての作品を読み、私なりに描いてきた作品を並べます。芥川と久保田の関係も興味深く、明治〜大正〜昭和初期のころの、東京の変遷にも驚きつつ、そんなあれこれを描いてみました。ほとんど初めて色鉛筆で大きな画面にゴリゴリ描きました。本も作りました。ご高覧いただけますと嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。

2016/9/14(水)20:35

おそろしいことにもう9月も半ば。備忘録。八月末に文学座有志による久保田万太郎脚本の芝居の観劇と、九月あたまに文楽の通しを見に行くなど。先週末は関西からMさんが来ていたので一緒に食事。あとはずっと仕事。目の衰え、体力のなさに弱気になる。

2016/8/27(土)12:27

粛々と仕事する日々。

2016/8/24(水)13:32

備忘録。先週の土曜日は取材で鎌倉と鵠沼海岸。夏の終わりの海、不安定なお天気のせいか、劇的な雲も美しく。日曜日は親戚の法事、月曜日は台風、そして昨日はついに猫がやってきた。いままでいろんな猫を飼ってきたけれど、今回の仔は、とっても内気。でも、抱っこして撫でさせてくれるし、喉もならす。でもその他はずっと部屋の隅っこの棚の下に潜り込んだまま出て来ない。そしてそこで寝る。餌もよく食べ、排泄も順調。夜中に一人遊びをしてるようで、オモチャが移動していた。

2016/8/19(金)11:56

今週末はお出かけするので、その前に片付けておきたいことを粛々と。

昨日は猫のためのグッズ買い出し。近所のホームセンターのペットコーナーの餌の種類の豊富さに目眩がしそうになる。イナバまで出してる。そしてイナバのは、ほかのものよりも美味しそうに見える。仔猫トライアルは一週間。どうなりますことやら。

2016/8/18(木)10:36

台風一過で初秋を期待したのが甘かった。まだまだ都内、暑いです。その上、湿気てる。身体の内側からあつくるしい。オリンピックの陸上の有色の選手(女子)の美しさに目をみはる今日このごろ。鍛えあげられた身体と美貌+髪の毛、爪、センスの良いお化粧の無敵の組み合わせ。しかもカメラに向かって投げキッスする選手の多いこと!(日本人の「おぼこさ」もかわいいけど)あれだけは、日本人には逆立ちしてもできないことではなかろうか。だれかやってくれないかな。

2016/8/17(水)11:16

最近、文章力が落ちている気がするので、メモをできるだけマメに更新しようと思ってます。日記代わり。日々、何をしたのか書き留めておかないと、ほとんど記憶に残らない。これはトシのせいかもしれませんが、ほんとうに日々すごてゆくのが早すぎて。

ということで、昨日は季刊誌の仕事を一つあげたあと、巌の本のための絵を描き、あとは別の装幀画のための資料探しなど。大文字は雨の中、点火されたみたいですね。今年の夏は京都的な行事を全く見ることができなかったのが残念。

2016/8/16(火)14:00

お仕事を粛々と。

2016/8/15(月)11:17

防備録。8/5に京都に戻り、8/6に大阪に出て、なんばの高島屋でテンペラ作家の山根須磨子さんのグループ展をみたあと、中津でこちらは三期生の谷このみさんの展覧会&トークショー&ライブペインティングを見た。大阪の街は、働いていたときは、嫌いな街だったのに、いま歩くと懐かしさも相まって、よいところだなと思う。子供時代を阪神間で育ったからか「水があう」感じ。人の応対も、風景も、店に流れるBGMも。中津から梅田まで歩く途中の道がおもしろかった。途中、出来心で天保山までバスで行き、大阪湾を見てきたりもした。ポケモンGOをしてる人多数。明治軒のオムライスの味が、少し変わってたような気がしたが、これは私の舌のせいかもしれない。8/8に東京に戻り、8/10は国立で猫とのお見合い。(そうなのです。昨年、ブチコさんを亡くしてから、ずっと考えていた、新しい猫のこと、家が狭いので、逡巡していたのだけれど、ちょうどイラストレーターのT山さんから、猫の里親探しの情報をもらって、T山さんのお知り合いの、Kさん宅に仔猫を見せてもらいに行った。そして、今週、トライアルで猫がやってくる。気に入ってくれるといいのだけれど…。)そして山の日は新宿で餃子食べながら展覧会の打合せ。8/14は、兼ねてからの懸案だった「彼」の墓参りをゲリラ的に決行。幸い、裏門があいていたので、スッと入れた。お花を供え、お線香をたむけてきた。墓所の一番良い場所にある彼の墓。背後の卒塔婆の文字を追うと、最近まで供養をしているらしい。やっと叶った墓参り。行けてよかった。帰りに御徒町のみつばちで氷。あとはひたすら、仕事。そして展覧会のための本づくり、など。

2016/7/27(水)11:04

七月がもう終わってしまう。

メモなんか書いてる場合じゃないのだけど、備忘録として。7/24は河童忌。秋の二人展のため、相方のUさん+数名で巣鴨の慈眼寺まで芥川の墓参りに行ってきた。巣鴨から歩いて15分ほど、染井霊園に隣接した墓地で座布団型の墓標にお参りしたあと、ついでに染井霊園に入って、偶然みつけた宮武外骨さんのお墓(脇に名刺入れがあったので入れてきた)や水原秋桜子のお墓もみてくる。駒込まで歩いてケーキを食べ、田端に移動、文士村記念館を見学してから徒歩10分ほどのところにある芥川の旧居あとをみる。小さめのマンションがたくさん立ち並んでいて、昔のおもかげは見るよしもない。そのまま西日暮里まで崖沿いの道を歩き、西日暮里から湯島まで移動、こんどは久保田万太郎の旧居(だと思われる)家を外から見学したのち、池之端の蕎麦屋「蓮玉庵」で遅めのお昼。偶然、店先に久保田の俳句を刻んだ句碑(?)を発見。「蓮枯れたりかくて天ぷら蕎麦の味」前書きは「蓮玉庵のために」とあった。今年の蓮はあちこちで外来種の亀やなんやかやの食害のために花が咲かずにいるそうで、不忍池はどうだったのかな。近くまで行ったにもかかわらず、見てこなかった。そのあと、渋谷パルコまで行って山口はるみさんの展覧会。エアブラシの原画もよかったけれど、ポスターになってる女性シリーズの原画が見たかった。描ける人が画材を選ばず縦横無尽に描いてるのが気持ちよかった。

世の中のあれこれがどうも不穏になってきている気がするが、目の前の仕事をするだけ。久保田の震災〜戦後の頃のことを読むと、変わらず、芝居の演出をして、酒を飲んで、女のことで悩んでる。自分のことにかまけている。庶民(彼が庶民だったかどうかはさておき)感覚で過ごす日常の普通さが、逆に新鮮。

2016/7/21(金)18:47

入谷の朝顔市で買ってきた、四色植えの朝顔、毎朝違う色が咲くのが楽しい。来年はまた別の柄のを買ってみようかなとも思う。

今年も祇園祭に京都に帰れなかった。いろんな人が祇園祭に行った画像をSNSにあげているのを見ると、京都の一番きれいな季節は夏じゃなかろうか、と思えてくる。蒸し暑さが伝わらないからかもしれないけど。来年こそは京都でゆっくりと祇園祭の見物がしたいなぁ(とため息)。

2016/7/17(日)14:10

もう七月も後半。一昨日はニースでテロがあり、昨日はトルコでクーデターがあった。バングラディシュの事件もトルコのテロもつい最近の出来事なのに、上書きされる出来事のインパクトが大きすぎる。

先日、とある理系の研究者の方の退官記念パーティーというものにお呼ばれしてきた。約三百人が集った祝宴の祝辞の半分以上が、英語で語られていた。化学という、世界の研究機関と協力しなければならない分野の人たちにとっては、英語というのは、コミュニケーションツールとして、必須アイテムなのだろうと思った。二次会まで参加させていただいたが、一発芸の応酬になりがちな、美大系のそれとは違い、静かに語り合う科学者たちや、科学者の卵たちのありようを垣間みて、この人たちと、対等に語り合えることばを持つ、文系アタマの人というのは、果たしてどれくらいいるのだろうか、と、ふと(おおげさなことを)思った。英語が話せるという意味ではなく、何を話題にして、どう共感してゆけばいいのか、という「ソフト」な部分で。科学の分野の方々は「事実」を大切にされる。「感覚」「センス」「感情」「雰囲気」などをよりどころとしがちな、私のような文系アタマには、共通の事実についての情報が共有されていないと、何も話すことがないような気がしてしまう。たまたま隣に座った人が、レッドツェッペリンが大好きで、猫好きで、讃岐うどんが大好きで毎年香川にうどんを食べに行っている、という人でもいない限り(そして、おまけに科学畑の方はクラシック音楽が好きな人が多い。そしてわたしはそれをほぼ、知らない。)何を話せばいいのかわからず、びびりな私は地蔵のように固まったままだった。たぶん、ヘンな人だったと思う。

最近「ロジックに考えることは苦手だが、センスがよくて表現力は潤沢にある人」と、「論理的に話すことに長けてはいるが、それを周囲にわかるように表現することが苦手な人」の違いが私の中でちょっとしたブームである。要するに、文系と理系の違いのつもりだが、自然の摂理の原理原則を相手にする理系の人の方が、どちらかといえば「謙虚」なように感じるのは、ネットで散見される(主に文系の団塊の世代オジさんたちが語る)あれこれに「?」を感じることが多いから。文系の人は、もっと理系の人のことばに耳を傾けた方がよろしいのでは、と。科学の世界の人がどんなにがんばっても、それを伝える記事をかく人が「科学が苦手」であれば、結果ゆがんだ情報がひろまってしまう。ある定年退職された理系ジャーナリストのおじさまは、文系にはもう期待しないで、科学の側から、わかりやすい言葉を話せる人を育てるしかない、というようなことを仰っているそうである。さもありなん。文系からの歩み寄りがない限り、理系の方にそう思われてもしかたない。いつまでも理系のアラ探しするのではなく、理系のロジックに対抗できる、理系をも含めた、大きな思想なり、哲学なり、大きな「物語り」つくりに取り組まなければ、文系に未来はないと思ってしまうのは大げさでしょうか。

あぁ、かなり、雑に書いてしまったな。よくわからないかもしれないけれど、せっかく書いたので、このママにしときます。

個人的には、昨年、病を得て、がっつり化学治療にお世話になった身として、ネットの医療に関するデマに辟易としていることもあり、ずっとモヤモヤしていたのでした。科学は万能ではないけれど、先人の科学者たちが見つけてきたさまざまな「発見」は、誰に対しても平等だということ。謙虚でありたいです。いま、理系教育は文系の方にこそ、必要なんじゃなかろうか、と、中高一貫して数学と物理が嫌いで、共通一次で数学が零点だった私は思います。だから何だ、という話ですけど。

2016/7/8(金)10:51

時間の流れの速さに目眩がしそう。もう七月。

昨日は一年半目の定期検診。超音波エコーで調べてもらった結果は、問題なく、ホッ。そのまま、入谷の朝顔市に出で、朝顔の鉢をひとつ買って帰る。朝顔にもいろんな品種があってびっくり。子どもの頃、夏休みの観察に種から育てた「青い朝顔」が欲しかったのに、そんな色のものは全然ない。水色の、きれいな、あの日本朝顔は、私の記憶の中の捏造なのだろうか。

2016/6/5(日)7:25

いつの間にか6月(おそろしい)。昨日は曾我蕭白の絵を見に表参道の「本の場所」に行ってきた。ある個人コレクターの方が集めた曾我蕭白の軸モノ中心にガラス越しではなく、生の至近距離から眺められる機会に加え、イラストレーターの南伸坊さんと伊野さんのトークショーがあったので、これはぜひ行かねば、と出かけてきた次第。とても面白かった。曾我蕭白については、今までに何度も展覧会で見たことがあったし、それなりに知ってるつもりではあったけれど、同時代の画家たちのことや、西洋のことまで視線をひろげた文脈のなかで、絵を描く人の視点からのお話は、とても刺激的であり、身に覚えのある親しみ易いものだった。絵を描くときの感覚的な言葉(空間を把握して二次元に落とし込むときの感覚を、プロ野球の選手が野球のフライをキャッチするときの位置取り(?)みたいなもの、と言ったり、など。)写真は片目で見た方が立体的に見える、というお話も目から鱗。

それで、改めて思うのは、私が好きなのは「上手い絵」ではなくて「味わいのある絵」なのだ、ということ(話が飛びますね。でも私の中では繋がってるんです。)すごい絵よりも、くすっと笑える絵。笑って欲しくて描いてるよな、と。だから何だ、という話ですけど。

で、話は前後するけれども、今年の11月の二人展のことで、先週JKさんに会いに行ってきて、がつんとやられました。と、同時に気付きもありました。「なんでイラストレーターになろうと思ったの?」と訊かれ、思えば、この歳になるまで、そんなことを正面から訊かれたことがなかったので、どきまぎしながら答えたつぎはぎだらけの自分の言葉のなかに、そもそもの私の絵を描く動機/理由がちゃんと語られておりました。それを口が勝手に喋り、耳がそれを聞いて改めて再認識するという、めんどくさい手順。そのことをいまここできちんと言葉化して切り取とうとすると、いろんなことがこぼれ落ちそうででしませんが、絵を描くことの自分の中での位置付けみたいなものが、おかげさまでぼんやりと輪郭をあらわにしたというか、そこを目指せばいいのかな、ということがわかったというか(あぁもどかしい言い方です。でも言い切りたくない)とにかく、まだしばらく時間もある(けど、きっとあっという間)ので、自分なりに格闘しようと思います。

2016/5/17(火)21:15

先週の金曜日は元同僚だったZ 先生のお墓参りに行ってきた。T御大二人も一緒に、昨年に引き続き二度目。お参りのあと北大路の鳳飛に流れて中華を食べつつ久しぶりにお二人の会話に耳を傾ける。途中グラフィックのK先生も参加して、鳳飛が閉店したあとは近くの喫茶店翡翠に移動してお茶。22時半頃解散となり、T島先生と烏丸御池までタクシーに乗る。先生方と話をしているとほんとうに楽しい。東京で一人で仕事をしていると、あの学校での日々が幻のような気がするけれど、こうやって先生とZ先生なんかを話していると、40代の十年は幻じゃなかったのだと思える。有り難いことです。いつまでもお元気でいて下さい。

土曜日に東京に戻ってきて、翌日は朝から浅草へ三社祭を見に行く。亀戸で乗り換えたバスを待乳山聖天付近で降りると、まさに二之宮の御神輿が通りを渡御している最中だった。思っていたほどの人混みもなく、ハッピ姿の方々にまじって御神輿のあとから付いて歩くことしばし。ついでにと一之宮の方も見ようと浅草寺をつっきり、雷門の前から広小路を田原町まで抜け、喉が渇いたのでドトールでオレンジジュースをテイクアウトし、道ばたの出店で焼き鳥を一本買って,食べ、地下鉄に乗ってこんどは半蔵門の国立劇場へ。以前から予定していた文楽「絵本太閤記」を見る。そして翌月曜日は、今度は江東区の家の近所のアパートでのお芝居「ハワイユ〜」にOさん親子と。駅で集合してから会場となるアパートまで歩くこと15分。小さなアパートの一室に入り込んでの観劇は、今まで見たことのない臨場感(誰かの家に入り込んでしまったような)。知らない女性の一人暮らしのアパートの、夜電気を消したあとの雰囲気って、普通なかなか誰とも共有しえないものだけど、それを観客10名が役者二人(女優二人芝居)を至近距離で見守りながら、息をひそめて体験する。おまけに昨日は茨城で地震があったため、なかなかスリリングでもありました。

2016/5/10(火)20:52

GWはいとこの結婚式で徳島へ行った。母の末弟(18歳年下)の娘さん。式の次の日に叔父に迎えにきてもらって、母の田舎の神山町にも行って鮎食川で遊んできた。昔、わたしたちがまだ小学生だった頃、よく泳いだ淵は長年のあいだに上流から流れてきた砂利で川底が浅くなり、私たちがその上に並んで甲羅干しをした大きな石も、上の部分が30センチほど水面から出てしまっていた。昔は水にほとんどつかっていたのに。河原でしゃがみ込んで石を見つめて飽きなかった。元々このあたりは阿波青石という緑色の石の産地で、転がってる石も全体に青い。でもよく見ると石英や赤いもの黒いもの、など様々な色もあり、細い線が入ったものや、ペトラ遺跡みたいな縞模様のものもある。山沿いには劈開岩の層も見えていて、石好きにはたまらない河原だと思った。重いので持ち帰らず。写真だけ撮る。叔父に徳島駅まで送ってもらうついでに、四国八十八ヶ所の15番札所「阿波国分寺」に寄ってもらう。拝観時間をとうに過ぎていたため、お参りだけして帰ろうとしたところ、納経所の影から住職が出てこられ「東京から来ました」と言うと、枯山水のお庭を拝見させてくれた。この庭がまた巨大な青石をふんだんに使った素晴らしい枯山水のお庭で、圧倒された。作庭した人は不明だそうだが、人もいない寂れ切った田舎の寺にこんなすごい庭があったとは。みなさん、ここはおすすめです。時間外だったので、そそくさと見学して出てきてしまったけれど、あとでもらったリーフレットを見ると、反対側に4mの青石をはじめ、巨石を並べた庭があったらしい。なので、それを見るために秋までにもう一度行きたいと思った。行けるかな。

2016/5/2(土)11:38

いつのまにか、ゴールデンウィークではないですか。

備忘録。先週の月曜は本の打合せで南町田。ここから数ヶ月のスケジュールがほぼほぼ見えたので、あとはがんばるだけ。水曜日はHBギャラリーに和田誠さんの展覧会。過去の映画をテーマとした展覧会のときのものを中心に、熊本地震のためのチャリティーも兼ねた物販もあり。やっぱり良い。

浅草にもちょこちょこ出かけてます。平凡社ライブラリーから出てる「大東京繁盛記」(芥川龍之介や泉鏡花や北原白秋など、文士たちが関東大震災のあとの東京について書いた文章に、鏑木清方や小村雪岱や木村荘八などが挿絵をつけた、当時の新聞連載をまとめたもの)を読みつつ、明治44年の「東京市十五区全図」を見ると、関東大震災後の東京の復興の様子が立体的に見えてくる。と、同時に大震災で一度「チャラ」にされてしまった、かつての明治の頃の町並みの豊かさを想像して驚く。高速道路も高層ビルもなく、馬車や市電が走り隅田川にはまだたくさんの渡船場があった頃のこと。雷門通りをはじめ、道のあちこちに側溝が走り、街路樹が柳並木だった頃のこと。私がよく散歩している小名木川(旧中川と隅田川をまっすぐ東西に結ぶ人工河川。家康がつくった)には、鰻が群れで泳いでいたそうだ。そんなことに興味を持つと、あれこれを調べたくなり、行ってみたくなり、資料になるものは買ってみたくなる。歴史は芋づる。東京に暮らして十年余り。歴史の折り重なってるところの面白さ。今となっては当時のものはほとんど残ってないけれど、いまほど江東区に住んでることをありがたいと思ったことはないかもしれない。

2016/4/13(水)16:19

どんどん日が過ぎてゆく。先々週はHBにもとき理川さんの個展、その翌日は代官山に浜野史子さんの個展。そして土曜日は浅草へ。隅田川べりで桜を見てから浅草寺の裏の通りにある蕎麦屋で蕎麦を食べたあと、「めぐりんバス」(100円)という小さな循環バスに乗って、三ノ輪〜入谷〜鴬谷まで行ってみた。ずっと行きたかった正岡子規の子規庵に閉館ギリギリに滑り込み、子規庵もさることながら、バスからの風景がおもしろく、浅草〜吉原〜三ノ輪〜入谷〜鴬谷が、頭の中でつながった。そのあとで神保町へ出て、靖国通りの古本屋のウィンドーで江戸時代(1600年代)の古地図を見て、そこに描かれている道の,いまとあまり変わらないところにいたく感動。帰宅してから家にある広重の版画「浅草田圃酉の町詣」の風景(遊郭の部屋の窓から一面の田圃が見えていて、そこを酉の市の熊手を持った人の列が続き、その後方はるか彼方に夕焼けの富士山が見える)をしげしげと見て、その風景と地図に整合性があることを発見。吉原ってのは、ほんとに田圃の中に隔離して作られたところだったのだ。(ちなみにその地図の値段を古書屋のサイトで確認したところ149万円だった。)下町エリアを散歩するようになってから、徳川家康ってのは大した人だったのだなと思うようになった。これについては、長くなるのでまたいつか。

そして昨日は卒業生たちと新宿のディープな上海料理の店へ。勤めている人、自宅で絵を描き続けてる人など、それぞれの近況を聴く。

2016/3/28(月)14:42

備忘録。先週末は友達のSさんと娘のHちゃんと浅草へ。浅草寺のおみくじは今回も「凶」。SさんとHちゃんは「吉」だったし、私の前におみくじを引いた見知らぬ婆さんのを盗み見したところ「大吉」だった。「浅草寺のおみくじは凶が多い」という説があるのに、今回前後左右(?)のみなさんが「吉」以上のなか、ひとり「凶」だと、さすがに凹む。境内におみくじをくくりつけたあと、近くの蕎麦屋で三人で蕎麦を食べ、梅園でしるこをすすった(蕎麦もしるこも美味しかった。)昼過ぎに二人と別れたあと、ひとり未練がましく境内に戻って再びおみくじを引いた。引っ張り出した棒の番号は「87」。なんと、さっき私の前で大吉を引いた婆さんのと同じだった。引出しから「大吉」のおみくじを引っぱりだしつつ、嬉しいんだけど、何か「ずる」したみたいな複雑な気持ちになる。おみくじというのは、その時の運勢を占うというから、もしかすると蕎麦を食べる前までの私は「凶」で蕎麦を食べたあとの私は「大吉」に転じたのかもしれぬ。そういうことにしておこう。そして雷門前から乗ったバスが「亀戸行き」で(これでは途中までしか行かぬ)、仕方なく途中で下車し、芥川龍之介も食べたという亀戸天神近くの船橋屋に立寄り、葛餅を買った。そしてそこからはひたすら歩く。途中、冷えたのかキツめの腹痛に襲われ、途中の西大島駅前でコメダコーヒーに入って一服する。あたたかいカフェオレでお腹をあたためたのち、ゆっくりと歩いて帰宅。全行程15000歩。夕飯のあとで食べたくず餅の味は、餅自体はほとんど無味で、黒蜜ときな粉を味わうための「土台」みたいだった。それにしても、葛餅が発酵食品だとは知らなかった。

日曜日は同業のT山さんのお誘いでこれまた同業者の方たち数名と共に、お世話になっているHBのT原さん邸へ花見の宴へお呼ばれに行く。食べ物は持ち寄りとのことで私は砂町銀座でその朝に買ってきた焼き鳥を持参。総勢9名ほどで、持ち寄ったものや、Tさんの奥さまの手作りのあれこれ、美味しいものをたらふくいただいて幸せな時間だった。大先輩であるTさんの仕事部屋も拝見。描き続けてらっしゃるという100均のスケッチブックがすごかった。爪の垢を煎じて飲まなければいけない気になった。はい。 「たまプラーザ」駅に初めて降り立ったけれど、東京の「東」とは全然雰囲気が違ってておもしろかった。

2016/3/18(金)15:52

相変わらず理系の原稿とにらめっこ。ロジカルシンキングは苦手な人だったのに、ここ最近はとても心地よい。この分野から、デザインとかイラストレーションとかの「感覚的なセンス」を磨いたひとたちが、どんどん出てくればおもしろいのに。ロジカルに考えることができて、デジタル手法を身につけた、美しいものを作れる、そんな人。センスと技術の両刀使い。とくに、科学に関するオカルトちっくな言説を聞くたびに、思う。

2016/3/16(水)12:17

最近ときどき見かける「某 美人すぎる銅版画家」というひとの作品について、とても違和感を感じるのだけれど、これは私のまわりだけ?技術的にも稚拙な表現力の乏しい絵を持ち上げる風潮が心配。学校で美術の時間が減ったのが遠因?

2016/3/14(月)14:41

三月に入ってから、出かけることが増えた。まず、横浜で本の打合せ&関係者+幾人かでのご飯会。著者の方が会わせて下さった、とある方のお話がとてもおもしろかった。そのまま中座して一期生のMinoruさんの個展(@DAZZLE)のオープニングに寄せてもらい、次の日はMinoruさんと同期のF本さん(こちらも絵を描くひと)と、S社のOさんと4人でご飯。先生を辞めてからも、こうやって会えることが有り難い。週末は大学時代のゼミの先輩方と目黒のバルサで昼からタパス。のちカラオケ。久しぶりに中島みゆきを熱唱。卒業してかれこれ30年。ものすごく精華っぽい集いだった。高&坪さんからもらった苦いアドバイスはいまでも生きてます。先生たちが(奇跡的に、と言ってしまいたくなるくらい、自分と同年代がバタバタと倒れている昨今)いまでも元気でいて下さることが、ありがたい。先生たちの思い出を共有できる人たちがいてくれることも。Mさんがデビット・ボウイの「レッツ・ダンス」をカラオケで歌ってた。

2016/3/1(火)15:43

先週末に、はじめて国立へ行ってきた。お世話になっているデザイナーさんの写真の展覧会を見たあと、国立在住のお友達のイラストレーターT山さんとお茶。東京の東から西への移動は,思いのほか距離があって、電車の中の人の雰囲気が、東の方とは違うことがおもしろい。駅からの大きな木の並木道、気持ちよかった。

2016/2/27(土)14:05

昨日は近代美術館で開催中の恩地孝四郎展に行ってきた。金曜日なので、夜8時まで開館。行ってきたひと、観てきた人、が、みんな「いいよ」とおすすめしていた展覧会。会場では業界では有名な方もちらほらと見かけた。期待をこめて観てきた感想は、たしかに良い。だけど、思ってたのとちょっと違う。木版画にする必要があったのか、と思う肖像画など、技巧的な興味はわいたものの、作品それ自体については、私にはちょっと「詩人」すぎた。アールヌーボーなど、その時代の影響をモロに感じさせる造形や文字、書籍の文字も「いいねぇ。」とおいしいものを味わう程度にはよかったのだけれども。なんつうか、魂をゆさぶられるほどの感動、ってのではなく(そもそも、そんな「魂をゆさぶられるほどの感動を与えてくれる作品自体、滅多にないんだが)どこか、距離感のある、冷静な気持ちで言える「よいねぇ」だった。お世話になってる学校の美術の先生が、ほんとうは芸術家を目指してて、木版画で作品展をしたのを観に行った感じ、の、おおきなやつ、って感じの気持ちの距離感。なんなんだろうこれ。「良いね」とは思うけど「悔しい」ってのじゃない。と、ここまで書いて思ったことは、私にとって、作品をみたときの一番の褒め言葉は「ムカツク」「腹が立つ」なんだなと思った。ピカソ,マチス、クレー、大雅、蕪村、せんがい、ブルーナ。そのあたりの「むかつくひとたち」の何に自分が反応してるのか、考え出すとなんとなく、分かる気がするが、ここでは書かない。自分と無関係に「良い」作品は、冷静な気持ちで観られる。そんなことを思った恩地孝四郎展だった。ついでに下の階で偶然観た、木村荘八の「新宿駅」には、びっくりした。木村荘八の油絵は初めて観たのだけれど(というか、本の挿絵以外は観たことがなかった)近代日本の普通の人たちの普通の暮らしの空気感が、写真なんかより、もっとリアルに伝わってきた(いや、実際どうだったかは知らんけどね。生まれてへんし)。こちらはちょっとムカついた。

2016/2/24(水)14:53

引き続き,歩く日々。日曜日には、東京駅の大丸へイノダコーヒの豆(挽き)を買いにでたあと、出来心で江東区の自宅まで歩いて帰ってきた。日本橋〜茅場町〜永代橋を渡り、隅田川のほとりを仙台堀あたりまで北上、そのまま東に進み、清澄公園の横を抜け、ヨーガンレールの前を通過し、ブルーボトルの横を抜け、木場公園〜現代美術館を横切り、小名川沿いに約3時間ちょい。途中、日本橋川と隅田川の合流地点でうろうろしたり、茅場町のハナマサで買い物をしたり、隅田川沿いで月島方面を眺めたりしたので、少し時間がかかった。15000歩。隅田川の色は、どうしてあぁも黒いんだろう。観光船や屋形船などいろんな船が行き来していた。仙台堀川のあたりは集合住宅がたくさんあって、あのどの家にも人が住んでいるのかと思うと、東京の人口密度の高さに改めてクラクラする。清澄のあたりは、焙煎機のあるコーヒー屋がいくつもあり(第3ウェーブというヤツですね)途中、立ち寄ろうかとも思ったが、客層ともども、どうもあの「お洒落な感じ」に気後れしてしまい、結局どこにも寄らずに帰ってきた。でも歩くのは楽しい。最近,仕事して,歩いて、ご飯食べたら日が暮れる。

2016/2/17(水)17:44

備忘録。先週の2月11日は昼過ぎに近所の亀戸神社まで歩き,境内でほころびかけた梅を見たあと、錦糸町まで歩いて買い物(くつした)をし、日が暮れたあとで再び蔵前通りを亀戸方面へ向い,途中見つけた小料理屋で食事をしたあと、そのまま東にしばらく歩き、道に迷って東武線の線路を越えたり、大きな公園に迷いこんだりしたあげく、旧中川の堤防付近まで行って、そのまま小名川を越え、ぐるっと大きくまわって夜22時頃に帰宅。全行程2万歩。2/14は、取材旅行にくっついて茨木は結城まで出かけてきた。東京から約二時間弱。その昔は、江戸から江戸川〜鬼怒川でさかのぼってゆけたであろう、そのまちは「結城紬」で有名な町で、取材のあとで体験工房で藍染めでバンダナを染めたり。蕪村が若いときに10年間ほど滞在した弘経寺(なかなかよいお寺だった)を見物したり、酒蔵を見学したり。楽しかった。 あとは相変わらず展覧会のための近代作家の本を読むなどの日々。西の方から聞こえてくる卒展の便りが気になるものの、今年もまた戻れそうにない。

2016/2/8(月)16:52

先週はだいたい家でこもって仕事。週末は国立劇場へ文楽を観に行ってきた。「義経千本桜」より「渡海屋」と「大物浦」。文楽は初めて見たのだけれど、なかなか面白かった。義太夫と三味線の音や舞台の色がきれいだったし、最初は気になった人形使いの人たち(三人でワンセット)が、いつのまにか気にならなくなり「いないことにして観る」ことができるようになった。関西にいた頃には観たことがなかった。東京は年に四回だけの公演らしい。次回は五月。

2016/2/1(月)17:20

気づけばもう如月。

一昨日は表参道〜外苑付近のギャラリー巡り。行く先々で、思いがけない人たちと会えた。犬も歩けば棒にあたる。最後に荒木町にできたSさんの新しい事務所兼ギャラリーにも行った。最終日で時間オーバーだったのに、快く中に入れて下さり、おしゃべり。お会いしたのは二度目で、しかも十ン年ぶりなのに、ずっと交流があるような気がするのはSNSのおかげ。ありがたい。それから、先週の火曜日は渋谷のイメージフォーラムへ「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」を観に行ってきた。たった一時間の短い映画。先日JKさんにお薦めされたもの。60年代頃に彼が撮ったカラー写真があまりに美しくて、これは観にゆかねば、と思ったのだ。映画自体は、とても地味なもの(しかも私は途中、寝てしまった)だったけど、彼の存在を知ることができてよかったと思う。「人生で大切なことは幸福じゃない」という言葉、よかった。帰宅してAmazonでさっそく写真集「EarlyColor」を注文。

ぶつぶつと、大きなスパンの仕事のラフを進める日々。こちらは今年中には形になるはず(はず。)あとはボランティアで俳画を描いたり(楽しい)など。

2016/1/25(月)14:00

昨日はある方面のかたたちと新宿の某所で新年会。指南役のTさんの「詩と文学では、詩の方が古い。詩はどこにでも発生しうるが、文学なんて限られてる。推理小説は文明の発達した西欧文化のある程度の安全安心が確保された国でしか成り立ち得ない。いまのシリアを舞台にした殺人推理小説なんてありますか?」という言葉がおもしろかった。このほかにもたくさん学ばせていただきました。JKさんに面白そうな映画も教えてもらった。まだまだ知らないことばかり。

2016/1/15(金)10:50

お年始に先週末、京都に戻り、日替わりでいろんな人に会った。ベルリン在住の現代美術作家のSさん、高校時代からの友人Mさん、陶芸家のIさん夫妻。地元の石清水八幡宮に徒歩でお参りし、十日戎ものぞき、五条に墓参りにも行った。そして、11日、ささいなことで親とけんかして東京に帰ってきた。

理由は書かないが、この歳(51歳)になってまで、親に寛容になれない自分の青さにうんざりする。相手はもう80歳の老人たちである。所詮は他人なのだから、遠巻きに見守っていればいいのはあたまではわかってる。はい、未熟ですとも。一人っ子で育ち、なかなか家庭内での子どもの立場を相対化できなかった私は、ずいぶんと遠回りしてきたのかもしれない。自分なりに工夫し、彼らとある程度、距離を取ることで、心の平穏を保てていたここ十年あまり。なのに。

京都で会った陶芸家のIさんが、下の息子さんが東京に就職し、これからは制作に集中できると仰っていた。現代美術作家のSさんは、これからを模索しつつ、ベルリンに戻ってあちらの人たちのなかで次のことを考えるかもしれないとのこと。私と同じ歳のMさんは、思うところあってこの冬受験するそうだ。みんな前向きだ。私の場合「後ろ=親」)は当分見たくないから「前」を向かざるを得ない。ちょっと情けない。

そして昨日は術後一年目の定期検査の結果を聞きに行ってきた。結果は問題なし。ビビリな私は、まわりの人には「大丈夫」と話してきたが、気持ちのどこかで実はちょっと心配だった。だからいま、ホッとしている。普通に仕事できる、それだけでも、ありがたいことではないか。はい、がんばります。

2016/1/3(日)16:20

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

初詣は浅草寺。引いたおみくじは「凶」。浅草寺は「凶」が多いとあとから知った。境内の絵馬のなかに実名入りで縁切りを願う人のものを見つける。みなさん、いろんな苦労をしょってらっしゃるのね。築地で集めた食材が美味しい。自分でこさえたなますと筑前煮も美味しい。美味しいものがあるだけで幸せ。

2015/12/25(金)20:58

あれよあれよという間に年の瀬もおしつまり、そして今日はクリスマス。

備忘録として書いておくと、16日に定期検診があり、18日にはKさんと春画展後期を観にゆき、そののち日本橋の室町の砂場で蕎麦をゴチになり、夕方から浅草の羽子板市に行って、そのまま上野でギエムの最終公演を観た。エンターテーメント的に充実した日のあとは、ほぼ、引きこもって家の掃除など。イケアでテーブルを買った。部屋の真ん中に場所ができたことで、いろんなことが便利になって嬉しい。

2015/12/14(月)12:27

ニキ・ド・サンファル展を見てきた。楽しかったけど、彼女の作品はやっぱりおひさまの下で見たいなと思った。ニース近代美術館で見たお母さんがモデルの作品もきていた。ちょうど佐伯洋江さんの参加している「明日展」と重なっていたので、彼女のギャラリートークにも参加。3年振りにお会いできてよかった。

2015/12/8(火)12:30

干し芋が美味しいと思う今日この頃。順調に老化しているということか。

2015/12/3(木)20:05

実はこの前の日曜日から一泊二日で信州に出かけていた。ちょっとした取材旅行に同行させていただいたのだが、取材が目的の人(一人)に対して、なぜか8人が同行するという、不思議なバランスの旅だった。詳細は書かないが、大人の修学旅行みたいで、なかなか楽しかった。これで今年は七月、九月、十一月と、三度、信州に出かけたことになる。前回二回は松本〜諏訪の南信濃、今回は長野メインの北信濃だったが、長野は何度行っても見所多くて楽しい。行く度に景色の色が変わり、店先に並ぶ農産物が変わる(あたりまえか)。今回は馬刺と林檎に新蕎麦に野沢菜、そして乾き切らない干し柿を食べた。どうして乾き切っていないか、というと、店の人がそう言ってたから。正しくは店の軒先に吊るしてある干し柿があまりにきれいだったので「これ、売りものですか?」と店の人に訊いたところ(聞くんじゃなかった)「食べてみる?」とこちらが返事する前に一番下に吊るしてある柿をさっさと紐からはずし「昨日干したばっかりでまだ乾いてないの。…50円だけど。」と店の人(女性/同年代)が言ったのだ。こちらに断るスキも与えず、動揺して思わず柿を受け取った私に「まだ上の方は渋みが抜けてないかも」とも言った。

…まぁ、下の方はそこそこ甘くて美味しかった。でも上まで食べると口の中に渋みを感じ、なかなか取れなかった。

そういえば、最近、しみじみ干し柿が美味しいと思うようになった。歳のせいだと思う。若かった頃は田舎の婆さんがどうしてあれだけの手間をかけて干し柿を作っているのか不思議だったが、今なら婆さんの気持ちがわかるような気がする。作ろうとは思わないけど。

2015/12/1(火)11:46

ついに師走。毎年思うが、月日の流れるのが早すぎる。

2015/11/20(金)12:56

京都の家。実家の猫たちと戯れつつ、家の掃除などをしている。もう読まなくなった本を古本業者に送り、昔の仕事を年代別に段ボールにしまいこむ。今の私がこれからの人生で一番若いわけで、その若いうちにできるだけ片付けておこうとあれこれ動かしてみる。しんどーい。

そんな中、今週の火曜日は「三火会」に初参加してきた。T先生を囲んでの会で、毎月第三火曜日に卒業生の店で開かれてる食事会。ちょうど、パリのテロの直後にそのパリから戻られた先生のお話を少しうかがうなど。

2015/11/6(金)16:26

寒くなってきました。家の近くの小名木川沿いを歩いたり、次の本の打合せを兼ねた食事会があったりなど。

京都の家にブチコさんがいなくなり、改めて存在の大きさを感じている日々。この18年半ものあいだ、私の身の上に起こった様々な出来事を振り返ってみるに、その全ての時間、彼女は京都の家の、あの部屋(とその近辺+庭)で、寝て、食べて、排泄していたのだということに改めて気づいて驚いてる。特に私が東京に拠点を移してから8年間は、実家の母がいたとはいえ、また週の半分は私が戻っていたとはいえ、それ以外は彼女は夜、一人だった。私が学校にいっている間、東京で仕事をしているとき、個展をしたとき、内之浦にロケットの打ち上げを観にいったとき、バルセロナでパエリアを食べていたとき、学生たちと常神に魚を食べにいったとき、親戚の法事で徳島に行ったとき、私が入院していたとき、彼女は彼女の小さな世界で,彼女の日常を淡々と送っていたのだと思うと胸があつくなる。待っててくれる猫がいた、ということの幸せを、猫がいなくなってから痛感してる日々。少しペットロス気味なのかもしれない。彼女に会いたい。

2015/11/1(日)15:12

ブチコさんの埋葬を終え、昨日東京に戻ってきた。その間にもいろいろとあり、京都国立博物館へ琳派展を観にいったり、林進先生による宗達と角倉素庵についての特別講義を大学に聞きに行ったり。唐突に書いたが、宗達と角倉素庵の関係に光りをあて、『風神雷神図屏風』の雷神が白い理由や、宗達と光悦による『鶴下図三十六歌仙絵巻』の「書」など、光悦が書いたとされるものが、実は角倉素庵のものだったのではないか、という研究を長年されている林進先生のことは以前からお名前だけは知っていた。大学のグラフィックコースの字遊工房の鳥海修先生の授業で、林先生をゲストに公開講座がひらかれると知り、久しぶりに大学に行ってきたという次第。嵯峨本についての鳥海先生の講義も面白かった。嵯峨本が活字だったなんて知らなかったのでびっくり。

2015/10/20(火)11:55

ブチコさんが今朝、旅立った。穏やかなさいごだった。

朝、私が起きたときは、まだ息をしていた。声をかけあたまを撫でてやると喉をならしてこたえてくれた。そしてふーっと大きく息をして、そのまま静かに息をひきとった。仔猫のときに庭の桜の木の下で拾ってから18年と5か月半。いままで、随分いろんなことを私に教えてくれた。ほんとうに賢くて、出来たメス猫だった。いままで、ほんとうにありがとう。

2015/10/19(月)14:02

いつかは来ると思っていた猫の看取り。それがこんなに急に来るとは。

先週の金曜日に京都に戻ってきて、土曜から月曜までは 四国から友人が遊びにきていて、猫も機嫌良く友人になつき、食欲もあり排便も順調だった。それが水曜日の夜に激しく嘔吐、そして下痢。そしてそれ以来、今日でもう五日間、水もほとんど飲まず、何も食べない。木曜日から毎日病院で点滴を打ってもらってるが、ついに今日は点滴のあと、はげしい引き付けを起こし、落ち着くまで酸素室に入れられた。両足をつっぱって焦点の合わない目でガラスの向こうで横たわってる猫を見ていると、病院に連れて来なければよかったのか、と後悔した。どうせなら最期は家で、と獣医さんとも相談し、父に車で迎えにきてもらい、なんとか家に戻ってきて、いまテレビ台にしている文机の下で寝ている。お腹が上下しているから息をしてるのはわかるし、ときどきは顔をあげてか細くないたり、撫でてやると喉さえならす。力の入らない四肢をふんばって、何とか立とうとするが、立てなくなってしまった。電気毛布を敷いてやっても、そこから逃れようとする。冷たい床に移動して体温を下げ、自ら代謝を落としたいのだ。たぶん、もってあと数日。18歳、もう充分だと思う一方で、まだまだがんばって欲しいと願ってしまう私は、何度も電気毛布を敷き直す。この家に引っ越してきてすぐに拾った子だったから、家の思い出と猫の思い出がほとんど重なっていて、この子がいなくなることがうまく想像できない。

その一方で。死ぬ時はこの猫のやりたいようにさせてやらなくては、と思う。どんなに親しくても、愛おしくても、命はそれぞれに別物。この五日間、飼い主としてはやるだけのことはやった。猫がやってほしかったかどうかは別にして(たぶん迷惑だったと思う)。こんな飼い主の自己満足につきあってくれてありがとう。これからはおまえが望まないことは、もう何もしない。私もここ数日は布団で眠ってないし、食欲もない。でもあたまは妙にさえている。仔猫から老猫そして死に際まで。この猫は最期に私に大切なものを見せてくれてる。だから見届けたい。

音楽が好きだったこの子のために、いまバッハのゴルトベルグ変奏曲をかけてこれを書いてる。

2015/10/13(火)18:35

三連休は京都。

2015/10/5(月)14:03

あっという間に10月。

去年のいまごろはいろんな意味で大変だった。そのことを思い返すと,あの頃といまとの間に丸々一年分の時間がはさまってるとは思えず、なんだか不思議な気がする。月曜日は清澄白河付近を散歩して、偶然見つけたブルーボトルコーヒーで一服。金曜日は青山のギャラリー巡り。そして土曜日は春画展の講演会をきいたあと、永世文庫へ。現地解散のまま、目白台のあたりをあてもなくぶらつく。雑司ヶ谷付近まで出て、護国寺まで歩き、そのまま江戸川橋に向かって歩き続けた途中でしんどくなって、再び護国寺まで戻る。1週間に7万歩あるく、の目標は果たせている。足に筋肉がついてきたような気がする。続けられますように。

2015/9/29(火)19:29

土曜日は大阪からMさんが来ていたので、一緒に大手町でご飯。翌日の日曜日は人形町ビジョンズでの伊野さんと大河原さんの展覧会『私と街のものがたり』〜神保町とロンドン〜のトークショーに行ってきた。関川夏央さんと大竹昭子さんのトークショーは、ロンドン時代の漱石のことや、ニコラ・ブーヴィエが書いた30年前の神保町のお話など。アートとイラストレーションの違いのお話から派生した、関川さんの「エッセイと小説の違い」についてのお話〜漱石のロンドン時代に書いた下宿先の家族についてのくだり〜目の前の光景についての妄想はエッセイなのか文学なのか〜など、面白かった。大竹さんのニューヨーク時代のお話も少し聞けて楽しかった。大竹さんは素敵なネックレスをしていた。二次会は近くの紅虎餃子房の二階で。仲秋の名月の日、明日はスーパームーンの日ですよねと私と同じ名前の絵を描く郁子さんに教えてもらった。MさんとKさんと話をしてると大阪弁になる。最後は残り数人でマクドナルドでお茶して浜町まで歩いた。明治座の建物をはじめて見た。五木ひろしの公演の大きな垂れ幕が下がってた。最近、明治〜大正時代の浅草〜隅田川界隈の本を読み続けているせいか、この界隈の空気感に注意深くなってる。たとえ当時と建物は違っても、川に向けて開けた空の感じや隅田川の流れは似たようなものなんじゃないか。二次会で旅日記を書いておくようにと言われた。

2015/9/24(木)17:18

シルバーウィークも終わりまして。

20日から友達の信州の家に行ってきた。静岡からのSさん親子も合流し、しばし、ぜいたくな時間を過ごす。翌日は小諸。三目は小海線(八ヶ岳高山列車)で小淵沢まで行き、中央線に乗り換えて諏訪まで。レンタサイクルで諏訪湖まで行ったり、下諏訪に感動的に美味しいガレット屋さんを見つけたり。道ばたで売られている林檎の、色/形の不揃いなのに美味しいことといったら。見たことのない皮ごとたべられる葡萄も安かった。下諏訪では新鶴の塩羊羹をお土産にする。22日は大学の10周年記念にお呼ばれしていたのだけれど、いろいろタイミング合わず体調のこともあり、欠席。

別件でT先生に電話したらミュンヘンから戻ってこられたところらしく、かの地は難民だらけで「まるで中東みたいやった」とのことだった。ウィーンから到着した列車の車内がゴミだらけで、すごかった、治安はまだ大丈夫なようやったけど、これからどうなってゆくんやろね、というようなことを話す。このタイミングでドイツに用事があるところがT先生らしいといえば、らしい。その昔、ベルリンの壁が倒れたとき、ソ連が崩壊したときにも、先生はかの地にいた。

そして23日は卒業生たちと晩ご飯。三十路に入ろうかという年代の彼らは、それぞれが少しずつ大人になっていた。また会いましょうね。

2015/9/14(月)12:28

昨夜は自宅からスカイツリーまで歩いてきた。片道およそ9000歩。途中、亀戸でトンカツを食べた。スカイツリーの下のセブンイレブンでホットコーヒーを買い、ベンチに座ってスカイツリーを見上げながら飲んだ。スカイツリーの一番上の部分が、雲に薄くおおわれているのか、先端だけがボワっと滲んだように白く光ってた。帰りは押上から住吉まで半蔵門線で戻り、そこから4000歩ほど歩いて帰宅。先週は、ほぼ毎日一万歩歩けた。今週もがんばる。

2015/9/11(金)12:26

九月になってから、はや十日。

きのうはお友達のTさんと神保町でご飯。久しぶりにお会いして、あっという間の4時間半だった。すごく楽しかった。同年代かつ、同業者の人との会話は、仕事以外のいろんな暮らしのヒントがもらえて楽しい。起床時間や、晩ご飯の準備のしかたや、猫のことや、親のことや、これからのこと。枯渇していた、わたしのどこかの部分に、栄養がたくさん流れ込んできたようだった。点滴、ありがとうございました。

学校に通っていた頃、同年代の女友達といちばん、疎遠になっていたような気がする。学校では学生たちや男の人たちの仕事のしかたに合わせて動いていたから、自然とそうなるしかなかったのだけど、そのことで自分の身体にも負荷をかけていたのかもしれないなぁと、今になって思う。また、そろりそろりと女友達と遊ぶ季節のはじまりにしてゆきたいなと思う最近。せっかくの50代だもの。

2015/8/31(月)10:44

八月も終わり。

先週の水曜日に京都に戻り、木曜日は元同僚K添先生のお墓参りに智恩寺の龍見院へ恩師の先生方と行ってきた。京阪四条を地上にあがったところにある、レストラン菊水の前までK先生が車で迎えに来てくれた。T島先生も一緒だった。お墓に供える花をT島先生が用意して下さると聞いていたのだけれど、私も何か、と思い夏の終わりの向日葵を持参していた。智恩寺の正門の前でT内元学長が待っていた。ずらりと並ぶ墓石の中で,あっという間に目的の彼のものを見つけ出したのはT元学長だった。あっという間に借りてきたバケツに二杯、水を汲んで来て下さったのもT元学長だった。この人の『勘』の鋭さに、久しぶりに感心してしまう。T島先生が準備して下さったお線香を供え、先生の分と私の向日葵を両側にいける。(お参りが済んで、出たゴミを捨てる場所を教えてくれたのもT元学長だった。初めて来た場所の筈なのに。)智恩寺のあと、北大路の中華料理屋「鳳飛」で食事。辛子鶏の有名なお店で、狭い4人席にオジサン3人+オバサン1人がみっちりと座りながら、焼売、焼きそば、辛子鶏、餃子、チャーハンなどをビール(私は烏龍茶)で食べた。お墓参りの後は中華がええね。精進落としやね。というようなことを適当に言い合いながら、あれやこれやと話こみ、閉店まで(といっても20時だが)いる。当然二次会に移動して、こんどは北大路堀川にある「翡翠」という古い喫茶店に行く。ここでもビールとコーヒーを飲みながら、あれやこれや話こむ。23時に店が閉店し、T島先生に烏丸御池までタクシーで送っていただき、京阪で帰宅。この日は結局先生方と8時間一緒だった。どの先生方とも一年以上お会いしてなかったのに、それぞれが1ミリも変わってなかった〜というより、むしろ以前よりお元気そうだった〜ことが、嬉しい。学校を辞めてから、こちらもいろいろとあり、なかなか会いにゆけなかったけれど、これからは遠慮しないで会いに行きたいと思ってる。それぞれが、生きてるうちに。

2015/8/25(火)17:32

今年の夏の暑さは過酷だったが、ここにきてようやく涼しい風が。

備忘録。先週の月曜日には、Y先生とT工房のTさんに快気祝いを横浜近辺のカレー屋(インド風)にて催していただいたのち、横浜の崎陽軒のティーラウンジでお茶。思いがけずプレミアムケーキセットなるものをいただいてしまう。なんだか嬉しいなぁ。金曜日には、Kさん夫妻と浅草で蕎麦を食べたのち、下町演劇祭の芝居を見て、そのままHBギャラリーの日下潤一賞の藤井さんの個展のオープニングにうかがう。その夜に親戚に不幸があり、急遽、夏休みの予定を断念。卒業生たちに会う約束が流れる。そして昨日はその親戚の葬儀。毎度のことながら、命がある、というのはどういうことなのかとつらつらと考える。危篤の知らせを聞き、会いに行った翌々日の訃報だった。危篤とはいえ、意識もはっきりとされていてお話もできたのに。そして今日はぼんやりしている。明日は京都に戻る予定。半分になってしまったが、せめて夏休み後半に予定していた元同僚の墓参りと、再度『若冲と蕪村』を見に、ミホミュージアムへ出かける予定。今年の夏もいろいろとあります。

2015/8/7(金)21:17

あっという間に2週間が経過。その間、卒業生たちに会う機会が何度か。江東区の花火大会に出かけたりなど。

2015/7/24(金)15:43

一昨日から老猫のために京都に戻ってる。一年前のちょうど今日は、祇園祭の環幸祭をSさんと一緒に見たのだった。あれからもう一年。そういえば、今週頭の日曜日は友人のT橋くんの個展を外苑のギャラリーに見に行って、そこで待ち合わせた大学の先輩二人とT橋くんと4人で近くのタイ料理屋で晩ご飯をご一緒した。初めてこのメンバーで新宿の中華料理を食べるために集ったのも、ちょうど一年前の七月のことだった。あれから一年。いろんなことが移ろってゆく。

猫は今年で18歳で、もうすっかり婆ちゃん猫の風貌だが、痩せたものの食欲も落ちず日々それなりに暮らしてる様子。人間で言えば90歳近いのだと思うが、彼女の低空飛行ながらマイペースで安定した暮らしぶりを見ていると、こんなふうに自分の好きな場所にいて、ぼちぼちと老いさらばえてゆくのは悪くないなと思ったりする。

わけあって、明治後期から昭和にかけて文芸方面で活躍した、とある人についての本を読んでる。近代についての知識のなさに我ながらうんざりしつつ。自宅からの失火、関東大震災、東京大空襲と三度も焼け出されたその人は、ほかにもいろいろとあって一時期、酒におぼれ、情けない時代をやりすごし、その時代についてを本人が書きたくないのに、複数の知人が文章にしてしまった結果、後世の私なんぞが本で読めている。ありがたい。

2015/7/19(日)15:07

七月も後半になってしまいました。今月の初旬からちょこちょこ出かける機会が多く、先週の頭はテンペラのY先生の個展を見に東銀座のギャラリーへ行き、先週末はHBのファイルコンペ受賞展(永井裕明賞のスガミカさん)を見に行ったり、翌日はグラフィックの卒業生O村くんの個展に行った先で、イラストの卒業生のNくんと偶然会い、しばらくぶりに近況などを聴けて楽しく、その翌日はこちらも卒業生のM村さんの個展を見にに西荻に行き、彼女の新しい絵を拝見。翌週は信州まで旅をし、帰ってきた翌日にこれまたファイルコンペの受賞展(鈴木成一賞のagoeraさん)を見に行き、卒業生のMinoruさんとSさんに会う。三月末からほぼ三か月間、引きこもり状態だったから、人と会う密度の濃さに目眩がしそうになるが、どんどん流れてゆく感じはなかなかよいものですね。まだまだ会いたい人がたくさん、連絡をしなければいけない方も多いのですが、ぼちぼち体力と相談しつつやってゆくつもりです。まずは近況報告まで。

2015/6/23(火)21:10

先週末はいろいろと忙しかったので備忘録。金曜日はソムリエ協会のSさんからお誘いいただいた、クラシックのピアノのコンサートを聞きに浜離宮ホールまで。開演前のトイレ前でイラストレーターのお友達のT山さんとばったり。久しぶりにおしゃべりできて嬉しかった。コンサートは江口玲さんによるベートーベンのピアノソナタとモーツァルトとリスト。翌土曜日は、人形町ビジョンズで森英二郎さんと浜野史子さんの『子規と荷風』を見に行ってきた。関川夏央さんのトークショーにも参加。「文学は仕返し」「文学は経済」との言葉が面白かった。関川さんのお話はほんとうに面白い。また『須賀敦子のミラノ』等の著作者である大竹昭子さんが参加されていたこと、次回の展覧会のときのゲストが大竹さんと関川さんであることなど、面白そうな情報もゲット。二次会のあとの三次会まで参加して、久しぶりに東京で暮らしてることを実感(おおげさですね)。

あとは身体をいたわりつつ、家の近所でごそごそと。夏に向けてそろそろと体力をつけてゆかなくては。

2015/6/12(金)20:28

引きこもり継続中。仕事のほかは読書など。あいかわらず食べることに熱心。ことに、カレー。

体調のこともあり、細胞レベルで欲してると言っても過言ではない。カレー屋の前を通るだけで、鼻ではなく、顔の皮膚(ほかの部位は服着てる)が「カレー食べたい」と反応する(本当ですってば。)それが高じて通販でスパイス一式購入。いろんな野菜を一緒に炒めては摂取にはげむ日々。今年の夏はこれで乗り切れそう。

2015/5/12(火)14:33

GWは京都に戻っていた。ブチコさん18歳のお誕生日だったため、久しぶりに顔を見たかったから。ほぼ家でおこもり。久しぶりに猫たちの気配に包まれた実家はケモノ臭かった。滞在中に友人複数がお泊まりで家まで来てくれた。それぞれのことを夜遅くまで話すなど。夜に寝るとき、ブチコさんが、私の布団に入ってきて、友人の方を向いてこれ見よがしにしているのがおかしかった。ほぼ2か月ぶりだったから、寂しかったのだね。週末に東京に戻ったあとで、母から電話があり、昨夜は母のベッドまでやってきて寝ていたらしい。いじらしい。

2015/5/1(金)10:38

若冲と蕪村。昨日、六本木のサントリーミュージアムで開催されてる展覧会に行ってきた。
ワタクシ的に、ことに蕪村が良かった。銀屏風の『山水図屏風』、迫力ありました。軽妙洒脱な『奥の細道図巻』ぜひ全部見てみたかった(会期中,少しずつ場面を変えて展示)。「春の海 ひねもす のたりのたり哉」の句入りの軸もアリ。その飄々とした風貌のヒトが頬杖をついてる画もよい。肩の力の抜けた『峨嵋露頂図巻』の筆の運びには嫉妬心がわき、『蘭石図屏風』の画の向こうに風が吹いてるのを感じ、畏れ入りました。蕪村、きっとおもろいおっちゃんやったと思います。そんな蕪村、今の四条烏丸角(一等地!)に住んでたらしい。一度、遊びに行きたかった。きっと懐の大きな、楽しいオトナのオッサンだったに違いないです(言い切る)。ちなみに国宝「夜色楼台図」は会期最終の4/29〜5/10までだけの展示だそうです。
片や、若冲は七年前に相国寺で見た『動植綵絵』には驚き、感動したが、今回のはいまひとつ。技巧が先走ってる感じがして、見飽きてしまって。青い。若造。オタク。そんな印象を絵から感じてしまうのは、彼の生い立ち「八百屋の長男」「絵と商売との板挟みに苦しんだ挙げ句、弟に家督を譲って自分は隠居」を知ってるからか。世間と折り合えないで、画面ばかり見てるヒトだったのね、と勝手な印象。一旦、歴史から忘れられてた人というのがなんとなくわかるような気がしたと言えば言い過ぎかしらん。最後に展示してあった『石峰寺図』はデジタルで動かしたら面白そうだったけれど。
それぞれ画像を貼付けたかったけど、メンドクサイので割愛。興味を持たれた方は、ぜひ本物を見に行って見て下さいませ。5/10までです。

2015/4/27(月)20:19

先週の土曜日、ブックデザイナーの日下潤一さんのタイポグラフィセミナーを聴きにゆくため、阿佐ヶ谷美術専門学校に行ってきた。遠い昔、パッケージデザインの仕事をしていた頃に写植を使ってはいたけれど、おおむね「文字」の扱いが苦手で、デザイナーには向いてないと思った私でも、日下さんのお話は面白かった。本のクレジットにも使った紙の種類や文字情報をいれるべき、ブックデザイナーは「芸者」本は「だんな」で、ブックデザイナーは、どんなダンナが相手でもちゃんと「芸」をしなくちゃならないし、どんなくだらない本でも一行だけはいいことが書いてある等々。ダメなものはダメだと、はっきりとおっしゃる。その一方で、すぐ笑いながらあやまる。大阪弁だからぜんぜんコワくないし、明るい。ハッキリとしていてウラオモテがなく、面白い人だと思う。二次会で、ちょっとした宿題を出された。おもしろそう。やってみる。

相変わらず週末は近場のインドカレー。薬膳料理にも興味を持つ。済陽高穂さんの新世紀版養生訓などを読む日々。

2015/4/23(木)13:36

旅日記続き〜カフェ編〜

今回行ったサンジェルマン界隈のカフェは、ブラッスリーLIPP、カフェ・ド・フロール、カフェ・エディトゥール。今回一番よかったのが、カフェ・エディトゥール「編集者」という名のカフェで、ここは二回訪れた。一度目はモーニングを注文し、皮がサクサクのあったかいクロワッサンが一つと、カフェオレで3.9ユーロ。ジャムもバターも何もつかない、シンプル イズ ベストな組み合わせ。二度目は3時頃に行ってパスタかナニかを食べたような気がするがはっきりと思い出せない。場所はオデオンの近くで、真っ赤なソファと大きなシャンデリア、壁には本棚がずらりと並び、おしゃれ。確か作家の平野啓一郎さんが、何かの雑誌でおすすめしていた店だったように記憶している。観光客相手のフロールよりも、カルチャーにうるさい人たちが「それふう」に集っている印象。LIPPでは街歩きに疲れたあとにカフェオレを飲んだ。老舗のブラッセリらしく、黒いベストとエプロンでびしっと決めた、プロ!という感じのギャルソンの立ち振る舞いを見ているだけて楽しかった。客もフロールなんかと比べると、観光客比率は低めの印象。

〜お買い物編〜

旅の途中、友人の著述家であり,イラストレーターでもある、さげさかのりこさんからのリクエストで「ペン先」を探すという使命を受けた。彼女がメールで送ってきたペン画像を見ると、それは金色でドイツのBrause & Coという会社のCITO FEINという名前のものらしく、鶏の絵がついている。プリンターはないので、私はその画像をボールペンでノートにスケッチしてから、パリのセーヌ川沿いにある老舗画材屋、セヌリエに行ってみた。まず,自分用に一階の顔料コーナーできれいな青(マチスの青!)の顔料を物色してから、店員にペン売り場をたずねると、それらは二階にあるという。店の奥の狭い階段を上がると、そこは一階とは雰囲気の違う、どこか事務所っぽいつくりになっていて、面積も一階の半分以下くらいしかない。スチールの棚の中に、木枠にガラスがはめ込まれた、いくつも細かく区切りのつけられた、大きさがA3くらいの薄い箱が二つ三つ、無造作に重ねてあり、その2センチ角ほどの区切りの中にすべて違うペン先が入っているのを店員が見せてくれた。こういうモノ、たまらない。さげさかさんからの使命など、一瞬で忘れるほど、私は目を泳がせまくりつつ、それらに見入った(はずなのに、今はよく思い出せない。というか、種類がありすぎ。)ノートをひろげ、鶏ペンのイラストを見せ「これを探している」と伝えると、店員の彼も一緒に箱の中を探してくれた。ほどなくして見つかる。さげさかさんの話では、日本ではもう入手できないものだそうで、せっかくなので何個か入手。ついでに自分用にもいくつかと思い、何か、フランスにしかないようなペン先はないか、と思ってそのことを店員に伝えたか、あるいは私が気になったものの由来を尋ねて彼が教えてくれたのかは忘れたが、フランスの小学校で、一番最初にみんなが使うペン、というものも買ってみた。銀色の小さな可愛いペンだった。(そのくせ、帰国してから使っていない。)最近は日本でも入手できる五線譜を書くときに使う手の形のペン、ペン先の巾が2センチもあるものも買ってみた。みんな一緒に、小さな紙にくるくると巻いてくれた。

〜バス放浪編〜

最終日は,午後の便での出発だった。昼過ぎの集合時間まで1時間半ほど時間があいた。さてどうしようかと思案して、パリの地図の端から端まで、縦方向につっきるように走る路線バスに乗ってみようとおもい立つ。サンジェルマンから乗るのだから正確には半分だが、その95番のバスは路線図で見ると、蚤の市で有名なヴァンヴからモンパルナス駅〜サンジェルマン・デ・プレ教会を経てルーブルとチェルリー公園の間を通り抜け、オペラ座の横をすり抜けて、サン・ラザール駅を横に見ながらモンマルトル〜最後はクリニャンクールまで行くという。1時間半あれば、モンマルトルくらいなら行って帰ってこられるはずだとタカをくくって、サンジェルマン・デ・プレ教会からバスに乗った(このとき私はこの全行程の距離をきちんと把握できていなかった。)真ん中の窓際の一人席に座り、窓の外を眺める。途中、いろんな人たちが乗り降りするのをぼんやりと眺めつつ、バスはルーブルを過ぎ、オペラ座を過ぎ、サン・ラザール駅の近くまで来たあたりで、町並みは観光エリアから日常エリアになり、乗り降りする人も、地元の老人や、中年女性などが多くなった。サン・ラザール駅を斜めの角度で通過して、しばらく行くと道は一段細くなり、行き交う人も少なくなった。バス停の間隔も遠くなり、界隈の雰囲気も暗い。時間を見るとバスに乗ってから、もう1時間近く経っている。このままでは、まずいとこのへんで初めて気づく。ここが今どこかは全然わからなかったが、このまま乗っていては、間違いなく集合時間に遅れてしまう。観念して次のバス停で降りた。急いで向かいのバス停に行くと、運良くしばらくして逆方向のバスがきた。30分で戻れるか。じりじりと進むバス。乗り降りする人が運転手といちいち話をしたりするので、ますます進行は遅くなる。やっとルーブルのあたりまで来たときは集合時間15分前くらいだったかと思う。でも、ここからがけっこう遠い。私のことは見捨てて先に行ってと伝えようと、同僚に電話をしてみたが繋がらなかった。バスが進むのを待つしかない。やっとこさサンジェルマンの教会の前でバスを降りたのが3分ほど前で、そこからサンジェルマン通りをダッシュした。ホテルの前まで辿り着くと、もうみんなスーツケースを出して雑談している。私の分も出してくれていた。平謝りしつつ、走ってきた道をこんどはスーツケースを転がして歩いた。走りながら、どこに行ってたんですか、と若手のK先生に聞かれて「バスに乗ってた」と答えたかと思う。バスに乗って、どこに行ったのか。結局、時間切れでどこにも行けなかったな、と笑いつつ、心の中で、ひとつだけ、サン・ラザール駅の佇まいだけは記憶にひっかかっていた。今度パリに行くことがあれば、あの駅と、駅の周辺を歩いてみたいと、今は思ってる。

2015/4/22(水)13:50

昨年の旅日記が途中で頓挫したままなので、このあたりでちょっと書いておこうとおもう。

2014年春のパリ、いまとなっては記憶があやふやだが、最初の二日間は美術館やコルビジェの家などを見学し、あとの4日間はひたすら街歩きをした。ホテルの朝食に懲りたので、二日目からはホテル近くのPAULでモーニングセット(パニーニのようなパンにサーモンやキノコをはさんだサンドイッチとカフェオレのセット)を食べた(余談だが、PAULのカウンターの年配女性店員は、毎朝、必死にメニューを注文する私にいつも優しく応対してくれた。パリの年配女性は、おおむね年配東洋女にやさしいような気がする。)ちょうどスモッグが酷く、自家用車のパリ市内への乗り入れ規制のため公共交通機関がすべて無料だったから、思いつくままに歩き、疲れたらバスに乗り、適当なところで降りてうろついた。四日間、ほとんど一人だった。今まで何度もパリに行ったが、行ったことのなかったルート(ラスペイユ通り〜エッフェル塔をぐるっと大きく囲むように経由)北駅や東駅のあたりにもいってみた。バスの窓から見ていると、黒い人たちがたくさん歩いていて、普通の地元民が集う映画館が見える。終点の北駅でバスを降り、東駅まで歩いてそのままサンマルタン運河沿いを歩き、ちょうど一年前、K先生に教えてもらった本屋をさくっと物色したのち、再び運河沿いに歩き、疲れたら近くにあった地元民が集うカフェで「フィッシュ&チップス」を食べた。カリっとした卵白を泡立てた衣たっぷりのタラ(だと思う)とフレンチフライドポテトが、たっぷりのタルタルソースを添えて出てきたそれは、二十歳の頃、ロンドンの屋台で食べたものよりも数段美味しい。隣の席のビジネスマンに「おいしいか?」と聞かれて「はい。」と答える。店を出たあと、大雑把にポンピドーの方角を目指して歩く。途中、男モノの衣料品店が並んだ通りがあった。クリーニング屋も多い。一筋横の通りに入るとこんどは女性モノの衣料品店が並ぶ。どれもお洒落でもなんでもない、ごくふつうの個人経営の店のようで、つまらなさそうに店番をしたり、路上に止めた車から商品をおろす人など、働くひとたちばかりが目立つエリアだ。ひたすら黙々と歩いた。観るべきものは、ただ街の佇まいのみ。広場にぶつかると地図を出して位置確認をし、何度か軌道修正して足が棒になったころ、ようやく観光客の匂いのするエリアに戻ってきた。ちょうど事前に調べて行きたいと思っていた、ポンピドー近くのカフェ(日本人が料理の監修をしている)を偶然見つけたので入ってみる。日本人が監修といっても、店員も客も全部フランス人。メニューもフランス語。窓際の隅っこの席に座り、カフェオレを注文して足を休める。ちょうど私のあとで入ってきた家族連れがいて、その一家の様子を見るともなしに観察する。30歳代と見える夫婦と未就学児の男の子ふたり。観光客なのか全員疲れ切っているようで、男の子ふたりはクリームソーダ(赤い)を飲んでいた。「パリ」と書かれた地図を見ながら何やら話をし、順番にトイレに入る。つまらなさそうな子ども二人がちらちらとこちらを見る。ニコリとしてみる。薄い色の瞳に素で見つめ返され、所在無く目をそらす。(そんなことを細かく記憶している自分も、たぶんそのとき、疲れていたのだと思う。)

店を出てから何をしたのか,今となってはまったく思い出せない。撮ってきた写真で確認しようとしたが、そもそもこの日のこれ以降の写真がなかった。どのようにしてホテルに戻り、この日の夜、私は何を食べたのだったか。とここまで書いて、この旅で一人で入った、とあるビストロのことをふと思い出した。中華ばかりが続いたパリで、以前の旅でも何度かみんなで訪れたことのあるサンジェルマンのマルシェの近くのその店に、ある日の夜、私は一人で行ってみた。

ミシュランに載っているフレンチレストラン。パリの食文化を本場で学生たちにも体験させてみれば、と恩師のT先生が旅の前に教えてくれた店だった。最初にそこに行ったのは2010年のことで、以来2〜3度訪れた。毎回、全員(12〜18名)旅の最後の日に予約をし「最後の晩餐」よろしく白いクロスが敷かれた正方形のテーブルを細長く繋げた席に着席して、かしこまってメニューを注文した。前菜とメインとデザートから2種類を選んで30ユーロ前後だったかと思う。学生たちも、翌日空港まで行くためのバス代だけを残し、なけなしのユーロをはたいて、見たこともない料理を真剣に選んだ。英語のメニューがあり、料理にも詳しいZ先生が、ほとんどすべてのメニューをじっくりと時間をかけて解説してくれた。田舎風のパテ、子牛の脳みそ、走り回ってた鶏 …etc。その解説のまどろっこしさに苦笑しつつ、「これは何?」といちいち先生に訊く学生、「ステーキ」の文字だけで即決する学生、それぞれの人柄も垣間見えた。フランスパンがとてもおいしく、お腹をすかせた学生たちのために、何度もおかわりをした。地元の人の利用が多いのか、いつ行っても満席だった、そんな店。

よし、行ってみようと思い立ち、その店のドアをあける。一人だと告げると別に嫌な顔もせず、一階の窓際の席に案内してくれた。この時点でほっとした。良かった、一人でもだいじょうぶ。窓を背にして座り、メニューをにらむ。本日のメニューはポトフだったので、それを注文。しばし待つと、黒い鋳物のような鍋(もしかしたらストウブだったかもしれない)に、人参とジャガイモとキャベツと一緒に、骨つき牛肉の塊がごろりと入ったそれが出てきた。皿に移し、ナイフとフォークで切り分けてはふはふとほおばる。それぞれの素材の味が濃く、おいしい。あたりを見渡すと、いろんな人がいる。仕事仲間と一緒の人たち、カップル、私とおなじ一人モノ。ゆっくりと食べ、食後のコーヒーまでしっかりといただいて、店を出る。時間は23時近くだったかと思う。そぞろ歩きでホテルへ戻る。その道中、何を思い考えたか今となっては全く思い出せない。ひとつだけ、パリの街は一人で歩いていても寂しくない、ということが嬉しかった。むしろ一人で歩き、いろんなものを見て、そのときどきでその場の人たちと関わることで、どこへでも自分の足で歩いて行けそうな気がした。(つづく)

2015/4/11(土)15:42

一年振りに焼き肉を食べたりなど。 今週は表参道まで外出したり、粛々と仕事をしたり。

2015/4/6(月)18:30

富山のKさんから手作りの晩白柚のピールが届いたり、掛川のSさんからキゥイが届いたり、家の近くのカレー屋に通ったり、の日々。仕事はそれほど忙しくないので、マイペースでぼちぼちと。相変わらず「食べること」に熱心。

2015/4/1(水)19:59

今年のお花見は雨のなか、近所の公園で。

昨年のきょう、同僚だったZ先生のお通夜があった。そのあと集った先生方と一緒に御池の居酒屋で飲み会があり、喪服のまま参加させていただいた。卒業生たちにたくさん会ったあとだったので、気持ちも高揚していたように思う。次の日の告別式は晴れ渡った空のもと、満開の桜の花を祇園で眺めていた。あのとき、卒業生と恩師のTさんと一緒に蕎麦を食べたあと歩いた花見小路の桜の色と、あの日の風や空の色は、これからも毎年忘れないと思う。

2015/3/28(土)08:45

今年は京都の桜を見られないから、東京の家で近所の桜のつぼみを見ている。家の近くの小名木川の遊歩道を歩いたり、清澄白河から歩いて自宅まで帰ったり、万歩計と一緒にうろうろしたり。

2015/3/26(木)13:22

生きてます。

3/16から17日にかけて、再び箱根に行ってきた。今回はポーラ美術館で開催中の「紙片の宇宙たち展」を見るため。藤田嗣治がコクトーの日本滞在中の旅行記のために描いた「海龍」の挿絵がすごかった。あとはブラックやレジェのリトグラフがおおらかでよかった。帰りに小田原の駅前で入った寿司屋の魚がどれも美味しくて、地魚は築地まで運べませんからね、と太刀魚やイサキのお造り、それも炙りで寿司でも。もう最高。

2015/3/11(水)18:57

5年ぶりに日本で3月11日を迎えた。思うのは、この時期はこういう気候だったんだな、ということ。ここ五年間、毎年二月の終わりから三月の半ばにかけて日本を離れて、冬から一気に春の中に舞い戻ってきていたので、この時期の微妙な季節の変化の仕方を忘れていたような気がする。温かい陽射しにウキウキと外出しても、思わず寒さで身を縮めるような、そんな季節。

昨日は京都の家で霰が降るのを見て、昼過ぎに新幹線に乗って東京に戻ってきた。途中の関ヶ原は横なぐりの雪で、今まで見た中で一番寒そうな景色だった。東京に近づくと、東の空は真っ暗なのに、西の空は晴れて西日がまぶしく、西向きの、ありとあらゆるビルの窓がその光りを反射してキラキラしていた。遠くの方に見えるビルの小さな窓も、ちゃんと律儀に光りを反射していて、移動する新幹線の中から見ていると、背景の暗い雲を背景に黄色く光るガラスの鏡面が、新幹線の移動に合わせて視界のあちこちで順番に光って、まるで日本じゃないどこかの未来都市のように見えた。

そのあと都内某所にて、卒業生のMさんとHさんと一緒にご飯。二人はどちらも1期生でイラストレーターとして仕事をしている人たち。すごく楽しかった。わたしは先生を辞めたあとも先生と自分から名乗ることに抵抗がある人なのだけれど、昨夜はごくあたりまえのように「先生」と呼ばれて返事をしていた。なんだか、こうして学生たちと会えることが、ありがたいなと思う。そんな仕事を10年間させてもらえて、本当に幸せだったと思う。そして恩師のT先生(たち)に、とても会いたい。

2015/3/6(金)19:27

京都に戻ってます。一月戻らなかったら、庭の木がすっかり春になっていて、臘梅が終わりかけで、いまは紅梅が満開を過ぎて散り始めている。こんど東京に戻ったらまたしばらく京都に戻れそうにないので、布団を干したり家の世話をしているうちに一日があっという間に終わる。今年は5年ぶりに、この時期に日本にいる。昨年まで毎年学校からの研修旅行でヨーロッパにいた。学校は辞めたけれど、できれば今年も一人でどこかに行きたかったけれど、病を得たため叶わなかった。そして震災後、はじめて3.11の日に日本にいることになる。4年前のあの日、パリにいて英語とフランス語のニュースばかりを眺めていた。セーヌ川のほとりを歩きながら、東京の知人に電話したとき、目の前にゆらゆらしている街路樹の実の色をはっきりと思い出せるし、翌日、ケ・ブランリ美術館の入場券を買いながら、再び日本に電話しながら見た、美術館の植え込みの花や葉の艶もはっきりと思い出せる。近代美術館の係の人たちの会話の中に聞こえた「ツナミ…」の声も、スキポール空港のお土産屋のお兄さんの「私たちは日本を応援してるよ」(というような意味だった)という英語のことばと、あたたかい眼差しも憶えてる。日本で迎える初めての3.11。どんな気持ちがするのかな。そしてこの「初めて」を共有する人が誰もいないことが、少し寂しい。

2015/2/26(木)08:31

サイトの扉を更新しました。まだあちこちリンクが切れてますが、ぼちぼち修正していくつもりです。昨日更新作業中、なぜか全てのリンクが「ブチ猫絵日記」に繋がってしまうという怪現象がおこり(仕事紹介も「ブチ猫」、作品も「ブチ猫」、この日々メモも「ブチ猫」…)焦りましたが、なんとか直す(というか、最初から作り直した)ことができました。そして今朝見たら「ブチ猫絵日記」だけリンク切れ。とほほ。できるだけ早く直します。

なんだかだと雑務に追われているような暇なような。学校を辞めてから、生活のテンポをつかむのが難しいなと思っていたのですが、ようやく最近、学校通勤以前の生活を身体が思い出しつつあるようです。朝7時に起きて,夜は11時には寝る生活。ちゃんと三食自分で作ってご飯を食べる。思えば10年、専任/特任になってからは、毎週東京?京都を往復し、時間の使い方が雑でした。食事も適当でした。夜も3時まで起きてました。生活全般が荒れていたように思います。あんなの長続きするわけない。年明けの入院もそのツケだと思えなくもない。そこまでするしか、そのことに気づけなかったのかもしれません。

最近、私と同じ病の方の闘病記やブログを読んで、すごく勇気づけられました。こんなふうに誰かに勇気をあげることができるなら,私もいつか書いてみたい。そのためにせっせと通院記録(検査結果、外来予約票、請求書など)をのこしてます。いまはまだ雑務にうもれて整理できてないけど、そのうち「闘病絵日記」描きたいです。

2015/2/22(日)09:42

木曜日は病院のあとで銀座のノエビアギャラリーで茂田井武展(規模小さめ)をさくっと見てから、神保町の居酒屋でSさんと知人と5時間(!)ほどおしゃべりする。お酒は飲めないけれど「美味しい日本酒」なら少しだけ飲めるわたくし、でもせいぜいおちょこに一杯のへなちょこ。この日は私以外の2人が「甘口」「辛口」「和三盆みたいな甘さ」とか「くせのあるの」とか形容しながら飲み比べているのを「おいしいの」と「そうでないの」という二元論でしか分けられない私は、羨望のまなざしで見つめつつ、もっぱら食べ物摂取にはげんでおりました。でも楽しかった。思えば、数年前に群馬の酒蔵の利酒会で並みいるノンベオヤジを4〜50人を差し置いて、3位に入った「繊細な舌」を持っているはずなのに、舌に記憶が残らないというか、毎回「はじめまして」の気分で飲んでいるので、実体(酒)と形容詞(甘いだの辛いだの)が結びつかないのでしょうか。ま。美味しく楽しければそれでよし、です。

それにしても。このところいろいろあります。いい加減サイトを更新しないといけないのに、更新できるソフトの入った古いMacがお釈迦様になられて以来、どうすることもできないまま…。すみません…。でも、東京の家でミイラ化していた古いi-bookがなんとか使えそうなことがわかったので、近いうちに更新したいと思います(夏までには。←遅。)

2015/2/20(金)12:27

月曜から一泊二日で伊豆〜箱根へ湯治旅に出かけていた。たった一泊で何が治るわけでもないが、思うところあったのと、箱根の岡田美術館で速水御舟の「木蓮」を34年ぶりに公開していると聞き、ぜひ見てみたいと思い出かけてきた。退院後、無性に海が見たくなったこともあり、まず熱海のMOA美術館で「琳派とアート展」を見たのち、伊豆の熱川温泉に移動し、窓から海の見える宿でひたすら海を見てきた。(余談だがMOA美術館は不思議な建物だった。展示物よりそっちの方が気になって、何を見てどう感じたのかをあまり思い出せない。)翌朝も6時から水平線から昇る日の出を見ながら風呂に入ろうとしたのだが、生憎雨模様でそれは叶わず、そのまま箱根の岡田美術館に移動した。実はそのあとでポーラ美術館にも寄ろうと思ったのだが、岡田のあまりの充実ぶりに、ここで足止めを食うことになる。しかも肝心の「木蓮」に辿り着くまで4時間弱。

何が展示されているのか−主に青銅器や土器や埴輪や陶磁器(古代中国、室町〜江戸時代の日本)等で、あとは狩野派や琳派の屏風絵、掛軸等の近代日本画で、文字にすると地味ですね。でも、少なくない美術館博物館鑑賞歴を自負している私の目にも、ここの展示物は、今までに見たことのない質のよいものがたくさんあって全く見飽きなかった。見たことのない質感、色、かたちでとにかく美しい。美しいとしか、言いようのないモノたちばかり。古九谷の大皿なんかもう、たまらなかった。全部を見ないともったいないと思ったから全部見た。それぞれのキャプションには陶器などの名前と時代と国名があるだけ。作者不詳、名も知らない職人たちによって作られたものたち。「美」だけがそこにある、というのが実に清々しかった。

肝心の『木蓮』については、幸い展示室に一人きりだったこともあり、水墨画なのに花弁の色が見えるようなこの作品に魅入られたように画面の前にはりついていた。おそらく『木蓮』には何かが憑いてる。しなやかな枝ぶりと悪魔のような墨色から視線が外せなかった。見終わったあと、同じ展示室の他の作品が全部色褪せて見えた。ちなみに速水御舟32歳のときの作品だとか。こんな絵を描いてしまったあと、40歳で没するまでの彼の気持ちを知りたいと思った。

ところでこの美術館、元パチンコ王といわれた方が作ったそうだが、良い意味で金の威力を見せつけられた気がする。

2015/2/6(金)16:36

あっという間に二月。退院してからの朝方生活も少しだけ遅くなったものの、朝7時半起床,夜11時には就寝を継続中。おかげさまで体調は良いです。

思えば、昨年の今ごろは母の入院手術などで大変だった。今年は自分の入院で、昨年はかろうじて行けた欧州旅行も、さすがに今年は無理だろう。昨年、一人でトランジットのために降りたイスタンブールの空港。朝の5時過ぎから10時過ぎの乗り継ぎ便まで5時間を過ごした私の周りはイスラムの方たちばかりであった。トルコ航空の機内食はおいしかったし、トルコアイスの売店のおじさんは陽気だった。嫌な思いなんてしなかった。あんなふうに、一人でのほほんと海外にいることを、今後もできるのだろうかと思う。

2015/1/19(月)08:43

年明けからしばらく入院していた。先週末、退院。それ以来、朝方の生活になり、午前6時には起床、夜10時には就寝している。この時間帯に暮らすと、午前中が異様に長く感じる。いままでの夜型の生活では、何もしていないのに日が暮れた。あたりまえだが、その分夜に何かをしていたかというと、何もしていない。もったいないことをしていたような気がする。いつまで続くか、わからないけれど、朝方の暮らしは気持ちいいのでしばらくは続けたい。

2014/12/24(水)21:18

先週末に東京に戻ってきた。クリスマスイブだというのに、仕事。でもこうして絵を描いていられることは平穏で幸せだと思う。

2014/12/14(日)09:06

選挙だというのに、京都。

備忘録として書いておくと、先週の日曜日に五条に墓参りに行ったあと、従姉妹の結婚祝いを買いに、二年坂の知り合いの陶芸家の方のところへ行く。そののち、建仁寺の裏を通って歩いて河原町まで戻り(夕方の鴨川沿いはそれはそれはきれいでした。)河原町のユニクロで買い物をし、日が暮れた頃、Mさんと一緒に木屋町四条下がったところのイカリヤ食堂で落ち合う。8月にお会いして以来で、お互いの近況報告などしたのち、団栗橋を渡り、夜の川端通を三条まで歩く。月がきれいだった。東京から京都に久しぶりに戻ると、町の色の多彩な事に気づく。山が近いから、というのもあるだろうけれど、湿気が多く、そのせいかどうかわからないが、東京に比べて視界がクリアな気がする。そういえば、髪の毛も東京にいるときよりも、しっとりする。

そのあとは、ずっとほぼ家で引きこもって仕事と雑務など。今のうちに片付けておきたいことをぼちぼちとやるも、なかなか進まず、猫たちが寒さに震えているのを見るに、ときどき鰯とうどんを炊いたものをやったりしているうちに、短い日はあっという間に暮れてしまう。

そんななか。ここ数ヶ月、ずっと抱え込んでいた仕事がやっと本になり、今週、店頭に並びます。厚み4センチの絵本『はじめまして数学 リメイク!』(吉田武著/東海大学出版部)、600ページ弱、そのほぼ全てに絵を描いてます。13年前(!)の2001年から2002年にかけて幻冬舎から出た同名のタイトル3巻本が一冊になったもので、リメイクに伴い、絵も描き直しました。我ながら、マゾだと思いました。当初は、描き直しが必要なところの絵だけ描けばいいかと思ったのですが、13年の間に線というのは変わるんですね。一本線を引いただけで、観念しました。前回の3巻本を持っている方にもぜひお薦めしたいです。

2014/12/2(火)22:08

師走になりました。そして、大きな山を越え、ほっと一息ついてます。とはいえ、越えた山がでかすぎたので、それなりにせねばならない仕事はあるものの、たまっていた家事雑事をこなすことで、満足してしまってます。いいのか、私。いえ、いいわけありません(反語)。そろそろ次のエンジンをかけなければ。

そんな中、明日は実に一月振りに京都の家に戻ります。ブチコさんにもやっと会えます。

2014/11/17(月)14:30

先日のメモから1週間経った。まだおこもり中。

京都に帰って恩師の先生たちに会って話しがしたい。猫をなでたい。寺を巡りたい。京都の美味しいモノを食べながら、友達とおしゃべりしたい。そう思いながら、いましばらくは東京で、とにかくがんばる。

2014/11/9(日)21:51

思うところあって、日記をつけはじめた。その日記がほぼ1週間「仕事」としか書くほかないほど、仕事だけしてる。

2014/10/24(金)21:56

10月ももう終わり。相変わらず、本のためにほぼおこもり状態。そんな中、ちょこちょこと人に会ってる。大学時代の友人Rちゃんが香川から来ていたので京都でご飯。京都駅近くの「イカリヤ・プチ」にて。久しぶりに会う彼女は、全然変わっていなくて、お互いの近況報告などしつつ、パカパカと食べて飲んで、あっという間の4時間であった。こんどうどんツアーに行くときはよろしくねと言って別れる。

そして、先週末はとあるサイエンス系の受賞記念パーティーにお呼ばれしてノコノコ出かけてきた。着席したテーブルの隣の席が「画像解析」の専門家、斜め向かいが鉱物の専門家、向いの方が極地探査をする気象学の専門家。いわゆる「適当な世間話」も、ここまで世界が違うと何を話せばいいのか話題に窮します。それでもちょこちょこと会話して下さる話しがとてもおもしろく、それぞれに面白そうな方たちばかりで、もっと時間があればじっくりとお話を伺いたかった。私は絵を描く人の集いにはときどき出たことはあったけれど、こういう理系の「冷徹な自然の原理原則」を扱う方々のことは、けっこう好きで、彼らの客観的かつ具体的にどうなのかを説明しながら成り立つ会話をハタから聴いているのは楽しい。夕方終わったあと、主催者のK夫妻がさっきまでの礼服を着替えてリュックしょって「今から蔵王に山登りしてきます」とさっそうと消えて行かれたのにはびっくりした。還暦を過ぎたお二人のバイタリティに感服。

そして昨日の木曜日は友達のSさんが掛川から来ていて、彼女と大学の同級だったブックデザイナーのMさんと、彼らの先輩である同じくブックデザイナーのSさんと神田須田町のお店で会食。こちらもすごく楽しい夜だった。普段あまり人と会わないから、こういう集いはありがたい。これでまたしばらくがんばれます。

2014/10/7(火)13:29

10月1日、東海道新幹線開業50周年記念式典に来賓として出席してきました。

九月の初旬、メールに「抽選に当籤しました。」との連絡があり、続いて電話をいただいた。当初、東京駅で遠巻きに見るたくさんの人の一人に選ばれただけかと思ったのに、よくよく話をうかがうと、ホームでテープカットかくす玉割りに参加してもらいたいとの由、びっくりする。新幹線と同じ1964年生まれで、新幹線のエキスプレスカードの会員だったから、という理由だそう。一瞬辞退させていただこうかと思ったが、学校の任期が切れた翌日に、「出発式」と名のつくもの(それも新幹線ですよ)に出ることができるというのも、何かの巡り合わせのような気がして、出席させていただくことにしました。当日の様子はあちこちのyoutubeで上がってるようですので、そちらをご覧下さいませ。とにかく、おこがましくも、新幹線にあやかって、私は何がしかの出発をしたのでしょう。そう思いたい10月。粛々と絵を描き続けてます。

2014/9/25(木)19:37

必死。

ここんところ、ずっと家にこもって絵を描いております。〆切日に間に合わせるために鋭意作業中で、煮詰まってると言えば、煮詰まっておりますが、集中できているとも言えるわけで。とにかく、絵を描いて生きていられることは何よりの幸せかと。

2014/9/22(月)13:51

旅日記続き。

パリ二日目。ホテルのモーニングを頼み、ホテル前の路上に出されたテーブルでひとり食べる。けっこう寒い。掃除の黒人のおばさんが、震えながらクロワッサンを食べている私をじっと見て、入り口にもたれながらあきれた顔で笑った。

オルセー美術館にて「ギュスターヴ・ドレ」展。期待していたわりに、あまり心に残ることなく、一通り見てさっさと出てきてしまう。イラストレーターの走りのような方らしいが、物語りの世界を絵にすることに、私がそんなに興味を持てなかったからかもしれない。それより、ちょうど同時開催されていたゴッホの展覧会の方がおもしろかった。私はどうも、上手い絵で挿絵を描く人やその人の作品よりも、その人となりが滲み出ている作家の生き方の方に興味があるのかもしれない。のち、少し並んでオルセーのレストランでサラダを食べる。出たあとで、チェルリー公園をうろつく。噴水のまわりには、たくさんの人がベンチに寝転んでいて、木々の若葉も芽吹く寸前、木蓮等の花も咲き始めていた。春。そのあと右岸に渡り、オペラ座のひとつ奥の細い道をうろつく。日本語のお店がたくさん並んでいるエリアを抜け、ポンピドーの裏のあたりまで来ると、感じのよいブティックが目にとまり、入ってみる。ちょうど日本から来ていた別のお客さんがいて、店員も「ちょうどいま大阪から帽子が届いた」と大きな段ボールを運び入れていた。その店員の30代くらいの女性が、とても親切で、私があれこれ悩んでいると、たどたどしい英語で会話してきてくれた。ちょっとしたアーチストの絵本も扱っていて、私が絵を描く人だと知ると、「それなら『まほもはん美術館』に行きなさい。ちょうどいま、とてもいい企画展をしているの。普段見られない、個人蔵の作品が集ってるの」と教えてくれた。「まほもはん?」はて、そんな名前の美術館、あったっけ?不思議そうな顔をする私に、彼女はパソコンの画面を開いて「ここ、ここ。」と教えてくれる。良く見るとそれは「マルモッタン美術館」のことであった。モネの睡蓮がある少し郊外の美術館だが、行ったことはない。印象派はそんなに興味が持てない私だが、彼女が「す〜ばらしいコレクションなのよ!」と力を入れて身振り手振りで説明するので、それなら明日にでも、行ってみようかな、と返事する。買い物を終えたあと、彼女が名前を教えてくれて、私の名前も聴いてきた。いつも思うのだが、私の英語力はほとんどゼロに等しいのに、海外で一対一で誰かと会話するときに、言葉を越えた何かで「わかり合えた」と思う瞬間があって、彼女とはまさにそんな感触があった。きっと私がパリに住んでいたら、友達になれていたと思う。(名前は忘れてしまったけれど。)店を出たあと、ルーブルの前を通って、ホテルにいったん戻り、夜はオペラを見にバスティーユに行った。ちょうどモーツアルトの魔笛をやっていて、抽象的な舞台装置が面白かった。

翌日は朝、オデオン近くのカフェ「エディトゥール」(編集者、という意味)でモーニングのクロワッサンとカフェオレを食べたあと、地下鉄に乗ってコルビジェのロシュ邸に行く。ここがとても居心地がよく、訪問者も私だけで、色違いの壁の部屋を何度も行き来しながら、じっくりと見学する。コルビジェの作った家は、作り付けの家具(ちょっとした棚)なんかの配置が絶妙で、こんな家で暮らしてみたいと思った。ショップでピンバッチと手帳を購入。帰りは一駅分歩いて、そのへんの中華総菜の店に入り、焼きそばと春巻きをあたためてもらって店内で食べた。そのあとで、昨日の彼女に教えてもらった「まほもはん美術館」に行ってみたところ、長蛇の列になっていて、1時間近く並ぶ。おじさん、おばさん、ばっかりである。ちょっと後悔したが、ほかに急ぐ用事もないのでそのまま待ち続けた。

やっとこさ入館したものの、こぶりな佳品が多く、個人の家に飾るにはぴったりなサイズであるが、それほど感動はしなかった。むしろ、地下に常設しているモネの睡蓮の一連の作品の方に圧倒された。近寄って見るとただの抽象画なのに、遠目に見ると、どうして睡蓮の池がその背景の時間まで感じさせつつ、立ち上がってくるのか不思議であった。ショップでは、この睡蓮の葉書ばかりを30枚近く買った。(絵の一部だけをあちこちトリミングしていて、上下左右すらよくわからないほとんど抽象画のようなポストカードで、丁寧に選んだつもりでも、同じものを二枚、手にとっていたりと区別がつきにくい。そんなものをいちいちポストカードにすることなど、日本ではあまり見たことがないから、それがおもしろくて意地になってほぼ全種類買ってみた。レジに持ってゆくと、筋入りクラフト紙の片面にきれいなセルリアンブルーを印刷した紙の小さな封筒に入れてくれた。ここのショップの袋はすべからくこの色で統一されているらしく、季節外れでディスカウントされていたカレンダーも同じ色で印刷されたビニール袋に入れてくれた。そしてこの日は、更にもうひとつ。装飾美術館に「ドリス・ヴァン・ノッテン」の展覧会を見に行く。ファッションにあまり興味のない私でも、これはなかなか面白かった。布地の芸術。学生とおぼしき若い人たちが、あちこちに集団で見にきていた。夜のルーブル(の一画。)背景の黒の空と、一面にプリントアウトされた百花繚乱のカラフルな花の壁紙と、様々な素材と形の服のコラボレーション。(ちなみにこの背景の花のプリントは、日本のクリエイターによる作品だそうで、ぴしっとピンのあったシズル感のあるド派手な花の写真を大きな面積に張り詰める技術はすごいものだった。)

のち、閉館ぎりぎりまでねばったあと、大急ぎでホテルまで戻り、パリに到着した研修旅行の面々と合流。再びミラマまで出かけてみんなで中華を食べた。パリに入ってから、ずっと中華ばかり食べている。(続く)

2014/9/19(金)13:29

ひたすら仕事中。

2014/9/12(金)12:02

黙々と、仕事中。

2014/9/7(日)22:22

さくっと旅日記を更新。

ローザンヌに二泊したのち、TGVでパリに入る。TGVのチケットは日本でネットで予約、プリンターでチケットも印刷(すごい時代だ)していた。朝食のバイキングでスモークサーモンをたんと挟んだ丸いパンのサンドイッチを作り、ジップロックに入れてから手荷物に詰める。駅のCoopでお土産にチョコレート(ほんとうにたくさん種類がある。)をたんと買い込んだあと、 ホームに上がった。パリまでは4時間くらいだったかと思う。ひとりがけの一番後ろの指定席に滑り込んだあとは、ずっと車窓を眺めていた。途中でワゴンがやってきて、順番に昼食を配ぜんしてくれた。サーモンのパテとパンとサラダ。デザートまでついている。そういえば日本でチケットを取ったとき、ランチがインクルードされてると書いてあったことを思い出す。仕方ないので、スモークサーモンのサンドイッチを食べるのをやめ、こちらのランチを食べた。ものすごく冷たく冷えたサーモンパテは、それなりに美味しかった。パリのリヨン駅に着いたのは夕方5時を過ぎた頃だったかと思う。

ホテルはサンジェルマン地区にあった。今までの経験で、パリの治安はあまりよくないと思っていた。しかも夕刻の地下鉄で、一人でスーツケースを転がしてリヨン駅からサンジェルマンまで乗り継ぐ勇気はなかったから、そのままタクシー乗り場に直行した。乗り場には人がたくさん並んでいて、でもタクシーも次から次へとやってきていて、私は乗り場の振り分けオジさんに言われるまま、二列ほど向こうに止まった黒っぽい小さめのタクシーに乗りこんだ。屋根にも天窓のある車の中は明るく、雲一つない水色の空がきれいに見える。肌の少し黒い巻き毛の若い運転手にホテルの地図を見せてしばらくすると、車はセーヌを渡った。左岸から見るノートルダム近くの建物の大部分は水色の布覆われていて一面、黄色のi-Phone5の広告になっていた。夕刻のやや黄色味をおびたきれいな空を背景にした風景をぼーっと眺めていると、運転手が話しかけてきた。どこから来たの?と言われて「日本。」と答える。運転手は自分はアルジェリアから来たのだと聞きもしないのに言う。「(サッカーの)ジタンと一緒だわね」というような意味のことを言ってみると、「?」という顔をされる。発音が悪かったか、と思い「ジタ〜ン、ッジタハ〜ン…」などと、適当に言ってみると「ぁぁ!ジタン(再現不能)!そうそう!」と嬉しそうに笑う。それ以上は何も会話もないまま、サンジェルマン通りに出て、ホテルのあるエリアに近づく。そろそろ着くな、と思って準備していると、私が渡した地図の住所の番地が見つからないらしく、彼は建物に貼り付いた番地ををひとつひとつ確認しながら低速で車を走らせ、角を曲がってややこしい細い道に入ってしまった。とたんに両脇のカフェのテーブルに座る人たちが視界に迫ってきて、じろじろと見られているような気持ちになる。「もういいよ。ここでも大丈夫です。」と言ったつもりだったのに、彼は熱心に一つの通りを通過したあとで、再びサンジェルマン通りに戻ってきて「なかった。おかしい。もう一度探してみる。」と粘る。もういいから、ここからなら、わかるから。と思いつつ、料金が上がらないようメーターを倒してまで初志貫徹しようとする彼の優しさ(プロ意識?)が異国の地で有り難く、彼の探究心につきあうことにする。大通りから三度目に入った細い道の曲がったところに、その目的の「番地」はあった。さっきも前を通ったような気もするが、大喜びしている彼の気持ちに感化され、こっちも大げさに喜んでみた。実際、初めてのホテルなので、真ん前まで連れてきてもらったのはそれなりに有り難い。料金を支払い、手を振ったあとでホテルに入ると小さなレセプションに普通の服を来た男性がいて「ボンジュール」と言ってくれた。

ここで、6泊ほどする。最初の二泊は一人だが、後半の4泊は大学の研修旅行のみんなと合流することになっている。荷物の整理もそこそこに、まずはポンピドーに歩いて出かけた。南京錠がいっぱいのポン・デ・ザールを渡り、そのまましばらく行くとポンピドーの左脇腹あたりに出る。企画展はアンリ・カルティエ・ブレッソンだった。チケットを買い、一番上までエスカレーターで上る。

ブレッソンについては、私はほとんど何も知らなかった。たぶん、この人の写真は見たことはあったと思うが、ブレッソンだ、と思ってみていない。パリの市民の日常を切り取ったモノクロの写真は、一見そっけないが、作為のない「ある瞬間」を切り取っていて、不思議な緊張感がある。特に有名人を撮ったポートレイトが面白く、その中にはジャコメッティ、アンリ・マチス、トルーマン・カポーティ、サルトル、キューリー婦人の娘夫婦などの写真があった。特にアトリエ(だと思う)で自分の複数の作品の中を歩くジャコメッティの少しぶれた写真や、大雨の降る中、濡れながら横断歩道を渡るジャコメッティの写真は、まるで彼が彫刻で表現し続けた「痩せた人」がそのまま写真に写し取られたようで、ジャコメッティが好きな私にとってはとても興味深かった。くつろいだガウンを着て白い鳩をデッサンするマチスは金持ちな風貌だし、カポーティーは「繊細」がそのまま写真に写り込んでいる。ポンデザールの上の斜視の怪しげな小柄な男性の写真は、若き日のサルトルだった。写真構図や写真のうまさについて、私は語る言葉を持たないが、ブレッソンのポートレイトは、〜たとえばその前にローザンヌで見たフィリップ・ハルスマンのそれと比べると〜カメラマン側からの作為をできるだけそいだ、撮影されている人の「佇まい」〜その人の内側にある、その人をその人たらしめている「何か」を、ポンと切り取って、はい、とみせてくれているようで、見ていて飽きなかった。

あと面白かったのは、ブレッソンの撮影風景で、その動画を見ていると、懐に隠したカメラを持ち、街中をトコトコと歩きながら、すばやく対象の人(や群衆)に近づくと、気づかれないようにさっと撮影して、スッとカメラを懐に隠し、そこから明後日の方角を見るように目をそらしながら離れることを繰返している。表情も一切変えない。淡々と近づいて、こそっと撮って、さっと離れる。顔もあっちを向いて「私何もしてません」的なふうである。ほとんど不審者にさえ見える。じっと対象を見つめているわけではないのに、こんな横目でちらっと見ただけてさっと近づき、確実に決定的瞬間を写真に収めることができるのか、と驚いた。そして、ほとんど喜怒哀楽を感じさせない彼自身の顔は、特にその目に特徴があって、どこまでも醒めた目をしている。これと似たような目を、どこかで見たことがあったな、と考えて、ADの浅葉克己さんだと思い当たった。 浅葉さんには何度かお会いしたことがあるが、話しをしていても、ほどんど表情を変えない。今思い出しても、笑顔を見た記憶もない。楽しそうに話していても、眼だけは醒めていて、見透かされているようで緊張した。この目は「観察者」の目なのだと思う。爬虫類のように、じっと対象者を観察する、冷静で、醒めた目。ブレッソンの写真の「決定的瞬間」と、彼のポートレイトにおける対象者の内面への的確なフォーカスは、この冷静な観察眼によるのかもしれないと思った。

ポンピドーを出たあと、カルチェラタンに戻り、いつも行く中華のミラマーでエビワンタンラーメンを食べた。(続く/いつか)

2014/9/6(土)18:04

いろいろと実験中。

2014/9/4(木)20:44

10月に珍しい人たちと集うことになりそうで、ちょっと楽しみ。

2014/9/2(火)17:47

恩師からお手紙をもらう。とても温かな文面。いろいろ思うことはあるけれど、もう後ろは見ない。

2014/9/1(月)13:00

週末に東京に戻ってきて、そのまま仕事以外の諸々をこなす。土曜は1期生のSと一緒にとある街をうろつく。Sと別れたのち、その夜は先週会ったMさんが上京されていたので、一緒に晩ご飯を食べ、翌日の日曜日は5期生のKと一緒に東京バレエ団の50周年記念公演で、ギエムのボレロを観てきた。デング熱で話題の代々木公園近辺をうろついていたことにあとから気づく。今日のけだるさは、ただの疲れ。夜、掛川のSさんから10月にちょっとした集まりの連絡あり。こちらもとても楽しみ。

家のベランダの箱の上に、三毛猫の立派なのがときどきやってくるようになった。とても太った、毛並みのよい猫で、いつも寝ている後ろ姿だけが見える。脅かすといけないとそっとカーテンの陰から観ていたのだが、昨日の朝、見つかってしまい、「フーっ!!」と威嚇された。今朝はこなかった。また来てほしい。

2014/8/28(木)07:25

盆明けに京都に移動。そのままずっと仕事をしつつ、いろんな人に会って食事をした。その備忘録。

まず、先週の水曜日は、4期生のYと四条と五条の間にあるカジュアルなフレンチビストロ「イカリヤ食堂」に。(ちなみにこの店は、五期生のイラストレーターのUの処女作漫画で知った。Uさん、感謝。)川床の柳の木の下で、卒業式以来、久々に会うRと、延々4時間おしゃべりをした。Rは、まだ25歳くらいの筈なのに、しっかりと自分の感じたことを自分のことばで語れる人である。たぶん、同じ歳の頃の私ならば、こんなふうに目上(しかも、倍くらいの歳の離れた同性)とは、こんな長時間、創作について話などできないと思う。具体的に何を話たのかは割愛するが、まだ若いのだし、この程度の話でいいか、とこちらが手抜きしなくても、ちゃんとそれ相応にキャッチボールが成り立つ(たぶん、私はけっこう熱く語っていたかと思う。)きちんと自分の言葉を紡げる人は、やはりよい絵を描く、ということの典型的な人であると思う。学校は辞めてしまうけれど、こういう人にこれからも会いたいと言ってもらえるように、私も精進しなければ、と背筋を伸ばす。

木曜日は仕事。

金曜日は、夕方から大学時代の友達Nと、くずはモール街でン十年ぶりに落ち合い、そのままスタバで3時間喋ったのち、これまた同期で、大阪で画塾をしているYくんも途中からやってきて、これまたモールの中の居酒屋で3時間弱。Nは中学で美術の講師をしていたらしく、それぞれの現場の話を肴に、あっという間の楽しい時間であった。何より、同年代ゆえ、親のことも含めての情報交換をできたのがありがたかった。

土曜日は仕事。(夕方から近所の銭湯へ行き、ジェットバスあたりして、帰宅後仕事にならず。)

日曜日は夕方から今度は高校時代の友人のMさんと、これまたUの漫画で知った富小路三条下がったところにある「ななたに」でご飯。先月の私の個展のオープニングに来てくれていたものの、そのときはあまり話すことができなかったので、改めてこちらからお誘いして実現。夏休みにシンガポールに行っていたというMさんのお土産話を聴かせていただく。昔はよく一緒に(ヨーロッパなどへも)旅をしたことのあるMさんなので、「おもしろい」と思うツボが似ていて、聴いていて楽しかった。そのときに出た話題のひとつが、シンガポールやマルタ等、元イギリス領だった国々は、未だにその文化が残っているそうで、「地中海の島、マルタのスカートはいてバグパイプを吹くオジサン」や「あっついシンガポールで雨の中、泥だらけになりながらクリケットしてる若者」の話を聴く。

月曜日と火曜日はひたすら、仕事。

そして昨日の水曜日は、夕方から恩師であるT先生に会いに行ってきた。私を大学に呼んで下さった方でもあり、任期が終わることの報告も兼ねてご挨拶に伺った。先生のよく行かれる高倉通りのイタリアンのオープンテラスで、美味しいピッツァを食べながら、いろいろな話を聴かせていただいた。中でも、ゲーテの色彩論についての話がとてもおもしろかった。「おもしろかった」と簡単に書いたが、その本自体は、難しくて全然おもしろくないモノなのだそうである。しかし、今年の春(だったと思う)先生は旅先の出雲で、実体験として、ゲーテの色彩論を目から鱗が落ちるような体験として、理解することができたそうである。そういう話を聴くと、こちらまで「それならば、そのゲーテと色彩論とやらを読んでみようか」という気になる。まどろっこしいので、話をまとめるが、「宇宙に行けるのはいつも宇宙飛行士」だけだが、いつか芸術家が宇宙に行けば、見える風景や色について、もっと多彩な表現ができる筈なのである。そういう「こちら側」からのアプローチについて、ニュートンと比較しつつのゲーテの色彩論への興味がむくりと起動した。「先生」という人をどういう人かと定義するなら、こういう何かを学び続ける人、そして学びたいと思う気持ちに火をつける人のことであると思う。処世術や、現世での成功にこだわるような、みみっちく、小さい人のことではない。一見、役には立たないような何ものかについて、書物を読み、その蓄積を自分の中に時間をかけて堆積させ、自分のことばで提示することのできる人のことである。そういう意味では、T先生は、ほんとうに「先生」なのだと思う。話を聴かせていただきたいし、こちらの話も聴いてもらいたい。いつまでもお元気で…。別れ際、地下鉄に降りる階段のところで、三条通に向かって歩く水玉のお洒落なシャツの先生の背中を見ながら、心からそう思った。

2014/8/14(木)19:20

盆なのに、仕事。

2014/8/9(土)21:37

ちょうど1週間前、従兄弟の結婚式に出席するため徳島に行ってきた。二泊三日。その間、台風の影響でずっと雨だった。

初日、高速バスで昼過ぎに徳島へ入り、駅前のホテルへ荷物を放り込んでから、母の里の神山の更に山奥の神山温泉にバスで1時間かけて行ってみた。吉野川の支流、鮎食川の上流にある母の家のバス停「馬喰草」(まくそ)を通り過ぎ、鬼籠野(オロノ)というおどろおどろしい名前の里(山に囲まれた美しい稲田のある里だ)を過ぎ、くねくねと進んだ先にある温泉。一時は山肌がバスの車窓にせまり、心細いような山あいの薄暗い一本道だったのが、神山温泉のあるあたりは、少し空の開けた平地になって道も広くなり、思っていたよりも人里だった。ロビーで休憩用の部屋の鍵をもらって、下のレストラン「かわせみ」でお昼〜阿波尾鶏(あわおどり)の唐揚げ定食を食べる。レストランには中年の男性客(地元の人らしい)が2人いて、2人とも独りずつ、別の席に同じ方向を向いて座っていて、そのうちの一方は、しきりに店の人(女性/若い)に話しかけ、その言葉が懐かしい徳島弁で、平日の昼間っからビール飲みながら、こんなところで出来上がっている。店員さんも、適度にあしらいながら、接客をしている。そんなやりとりを耳の肴に、もくもくと食事を食べるわたくし。添え物のズイキの味噌炒め、椎茸の佃煮物が美味しかった。途中、男性客三人連れや、老夫婦なんかもちょこちょことやってきて、広い店内のあちこちに分散して座りながら、食後のお茶をおかわりして、ゆるい時間をしばし楽しむ。
のち、湯につかる。前夜は仕事で3時間程度しか眠れないまま、高速バスで移動してきたので、このときの開放感は絶品であった。「ふぁ〜〜っ!」と声に出す。足を伸ばす。泡がぼこぼこ出ているエリアに移動してふくらはぎをあてる。サンショウウオのように前脚(手)をついて移動してみる。いくつかある湯船に順番につかり、露天風呂にも入り、呆けた。風呂から出たあとは、売店でスダチサイダーを買って部屋に戻り、座布団を枕に昼寝した。

夕方。起きるとバスの時間まであと少しであった。慌ててチェックアウトして、土産物屋でズイキの味噌炒めと椎茸の佃煮を買い、外に出ると小雨であった。バス停で待っていると、15分ほど遅れてバスが来た。帰りの車中は、ずっと窓の外を眺めて写真を撮った。徳島市内まで戻って来た頃、ふと重大な忘れ物に気づいた。温泉の部屋の金庫の中に、明日のご祝儀袋(実家のものと、うちのもの)が入った袱紗を見事に忘れてきたのであった。青ざめながら、バスの中でやきもきするわたくし。もう一度引き返すしかないが、行ってこれても、戻ってくるバスはもうない。そうなると明日の朝イチで行くしかない。それとも銀行でお金をおろしで祝儀袋をどこかで買って、親の分も一緒に、にわかに捏造するか…。でも新札は調達できないだろう…。あれこれ頭の中はパニックである。駅前でバスを降りると、速攻で温泉に電話をかけた。出てきた若い女性にコトの顛末を話し「明日の朝には取りにうかがいますから」と言うと「こちらへ来られる用事、ありますか?」と聞かれる。「いえ、ありません。」と答えると「では、今から、そちらへお届けいたします。」との信じがたい返事。バスで1時間の距離である。既に夕方の6時過ぎである。「え、いいんですか」とうろたえながら聞き返すと「えぇ、構いませんよ。徳島市内でしたら、大丈夫です」というようなお返事。「あぁぁぁぁありがとうございます!!!」感動するわたくし。それから彼女は、時間と場所を指定してくれた。その時間までまだしばらくあるので、ひとまずはホテルにチェックインして部屋に入り、荷物をほどいて、再び外に出て近所を物色し、コンビニでお茶などを買ってから部屋に再び戻る。本格的に降り出した雨。夜の8時40分頃、温泉から電話が入る。今度は男性の声である。「今からこちらを出ます。近くなったらまた電話します。」とのこと。「あぁぁありがとうございます!」答えるわたくし。そして、ざぁざぁの大雨が降り出した9時15分頃「もう近くまで来ています。駅前の〇〇の前でお渡ししますから、出ていて下さい」と指令を受ける。早い。30分しか経っていない。雨は傘をさしていても濡れるほどの大雨で、その雨のなか、待っていると、ほどなく4WDがやってきて、運転席からスーツ姿の男性がさっそうと降りて来た。傘をさしてもいない。慌てて傘を差しかけながら近づくと、「貴重品袋」と書かれた封筒(しっかりと糊づけされていた)を渡してくれた。

お礼を言って車を見送ったあと、感動したまま部屋に戻った。何に感動したかといえば、温泉の方の親切な心遣いはもちろんだが、バスで1時間の山道の距離を大雨の中30分でやってくる高い運転技術と、大雨なのに傘をささないで車の外に出てきてしまう男気だった。(が、これは次の日、やはり大雨の中、傘もささずに自転車を走らせている女子中学生やおばさんを見たので間違いだったことに気づく。男気ではなく、そういう県民性なのかもしれない。) とにかく、神山温泉の皆さま、ありがとうございました。また、行きます。(徳島記は続く)

2014/7/26(土)16:57

一昨日、京都に戻ってきた。個展の前以来だから、ほぼ20日ぶり。ちょうど祇園祭の後祭の還幸祭で、静岡から来ていたSさんと一緒に、木屋町で食事したあと、行ってみた。四条通りを八坂神社の方へ歩いてゆくと、白いはっぴ姿の男の人たちが、反対方向へ歩いてゆく。みな、一仕事終えた風情。もう終わったのかなとSさんと話しながらも、その先に行けば何かがある気がして、東山通りまで出てみる。交通整理をしていたおまわりさんに尋ねると、あとひとつ、神輿がやってくるらしい。それならば、と真正面の石段脇の石垣の上に2人して座りこんで待つ。しばらくすると、それは来た。予想以上に大勢の担ぎ手さんを従えて、「錦」と書いた提灯をいっぱいぶら下げた八角形の神輿は「ほいとっほいとっ」とかけ声とともに、シャンシャンと鈴の音をならし辻を曲がる。目の前に来たときは、さすがに鳥肌が立った。「やっぱり京都の御神輿はお上品だねー」と静岡出身のち関東圏で過ごしたSさんが言う。傍らの山門からは、神輿を神社に収めたあとなのか、三角の紋(私は斜体のかからないアディダスマークと認識。)をつけた大勢のはっぴ姿の男衆さんたちが目の前を帰ってゆく。こういうときいつも思うが、日本の男には祭りが似合う。若者は言うに及ばず、たとえ普段はスーツ姿の腹が出て禿げたオッサンだとしても、祭りのハッピ姿には色気がある。というか、普通に日本人には和装が似合うということなんだろうな。女性がそうであるみたいに。

神輿が行き過ぎたので、なんとなく2人で境内に入ってゆく。すると、奥の方にも人だかりがあって、向こうに御神輿が安置されているのが見えた。ほどなくさっきの「錦」の神輿が右手からやってきて、その安置所のまわりを三度ぐるぐると回ったあとで、中に入った。いちいち「ほいとっほいとっ」とかけ声をかけ、ときどき三拍子をうつ。「よーさの(三拍子)よーさの(三拍子)よーさの(三拍子)よ〜」時刻はもう23時過ぎ。御神輿が全部入ったあとで、境内の灯りが全て消え、神輿に入っていた神さまたちを本殿へ戻す儀式が行われた。灯りが消えた瞬間、鳥肌が立った。町の灯りを反射するため暗闇にならない空を見て「あかるい!」と言うSさん。びろろん♪と響く琵琶の幻想的な音と、低いうたが掛合うなか、白い布に隠された神さまたちが、本殿にお戻りになった。なかなかにディープな世界。

ここ数年、身近な人を立て続けに亡くし、不謹慎な言い方だが、生きてた人の死体を棺桶の中に見るという経験を二度ほどした。そのとき、動かない彼らの躯を見て、死ぬことの恐怖よりも、かつて命があったことの不思議を感じた。祭りで担がれる御神輿には「神さま」がいる。いることにして、あれだけ大げさに道を清め(山鉾巡行)、神輿を担ぎ、一か月という手間ひまかけて、京都の町は祭りをする。八坂神社で安置所のまわりを回るとき、神輿の上に飾られた鳳凰の飾り物が、死者の身体のように見えて一瞬ぎょっとした。何十人、何百人の男衆に代わる代わる担がれ、揺れながら、命ないそれが何かの生け贄のように見えた。ふと、何年か前、バーゼルの現代美術館で見た映像を思い出す。それはヨーロッパの村の町角に20人ほどのオーケストラが並んで演奏しているもので、突然、その中の一人が死体のように動かなくなり、宙に浮かび、どんどん上に消えてゆくというものだった。カメラが引くと、巨大なクレーンが彼を引っ張り上げている。ほかの人たちは全く気づかないかのように、演奏を続ける。ずいぶん高いところまで登ってしまった動かない彼を見て、死ぬというのは「全く動かなくなって、ここからいなくなってしまう」ことなのだと思うと、涙が出てきた。神輿の上の動かない鳳凰の飾りは、男衆たちのムンムンした熱気に翻弄されるように揺れていて、死者と生きものとの強烈な対比を見た気がした。生きもの、というのはなんだか抑えきれないおそろしいもので、死者というのは、どんなふうに扱われても、泰然としている。
あちら側とこちら側は、そんなに違わない。けれど、その間には隔絶がある。いなくなってしまった彼らは、今どこにいるんだろう。神さまが暗闇のなか、移動されたとき、手を合わせた。連綿と続く祭りの儀式を執り行うひとたちに、自分を越えたナニかに繋がっている安堵感のようなモノを感じた。死者たちのその後を引き受けて、神さまが「オッケー!まかしとき!」と言ってくれているような気がした。うまく言えないけど。見られてよかった。

2014/7/22(火)18:42

先週末は、大学時代の知り合い4人で中華。うち3人がクラブが一緒、3人が学科が一緒、2人づつで学年が一緒だったため、全員がわかる話題が微妙にずれていたため、それぞれにわかるように説明しているうちに、あっという間に時間が過ぎた。同じ大学だった頃は、この4人でつるむことなんてなかったことを思えば、不思議だったけれど、ウチの大学っぽい匂いと、言わなくてもわかる感じが共有できるのはありがたかった。あとは家にこもって個展のためにたまっていた雑用や仕事を片付ける日々。

2014/7/17(木)09:55

昨日、無事にHBファイルコンペ日下潤一賞『NEO南画』展、終了しました。夏だから日照時間が違っていたし、人の出足もファッションも秋とは違っていて、まるでHBギャラリーという期間限定の私の「別荘」に、いろんな方が入れ替わり立ち替わり訪ねてきてくれる、バカンスのような6日間でした。卒業生たちも、たくさん来てくれました。ありがとう。

イラストレーターという、長年この稼業をやってきて、仕事の絵ではそれなりに認知していただいてはいるものの、それだけでは物足りず、未だにずっとずっと足りなかった「何か」を模索していた(る)わけですが、今回の展覧会で、やっとこさ、その尻尾みたいなモノを捕まえられたかな、と思います(ほんとかよ)。そこに行ってみようかね、というフラグを立てた、といいますか。

実はこの夏で、2004年から10年勤めた大学を辞めることとなりました。理由は単純に任期が終わったから、なのですが、その最後の最後で、この展覧会の機会をいただけたわけです。展覧会の会期は、HBギャラリーさんのスケジュールが既に決まっていたからで、私の都合は関係ありません。そして、この個展の最終日、京都で私のお手伝いさせていただいている小野明先生の絵本の授業も、小野先生一人にお任せするという形で、前期を終了しました。なんというタイミング。節目感、ばりばりです。

昨年の12月に受賞の知らせをいただき、その5日後に、母が大腿骨骨折で入院→手術→介護保険の認定申請→実家のリフォーム、また3月終わりには同僚の逝去があったりと、波乱な日々を乗り越え、やっとこさ制作に取りかかれたのは既に6月。と中、前回の個展で出した作品で小さな作品集を作ろうと思い立ち、HBスタジオの唐仁原さんと白村さんに相談して作品集を作ったり、日下さんのアドバイスで京都の表具屋「北岡技芳堂」さんで軸装をしていただいたりと、いろんな方の協力を得ることもできました。(授業の合間、そんな個人的な活動をごそごそしている私に対し、何も言わずそっとしておいてくれた、大学の先生たちにも感謝しています。)

こんなふうにいろんなことがあると、自分の意ではどうしようもない、天の采配といいますか、物事の流れというモノはあるのだな、と感じます。今回の個展で、来てくれた複数の方から「なぜ水墨画をマジックで描こうと思ったのですか」と訊かれました。一応、なりゆきの顛末は、ごにょごにょと答えられましたが、肝心の「ペンで水墨画」への飛躍の理由は、実は自分でもよく憶えておりません。ひとつだけ鮮明に憶えているのは、この絵でHBファイルコンペに久しぶりに応募してみようと思い立ち、家の近所の郵便局に、応募料を入れるための現金書留を買いに行った日の道中のこと。10月の晴天の日、学校に行く前に立ち寄った団地の中の郵便局の前の銀杏の黄色い葉っぱの色を見ながら、今さらこの歳で、それこそ学生たちと同じ土俵に立って、何の評価もされなかったら、と考えると怖じ気づき、もうやめてしまおうか、とためらいながら見た、あの景色のことです。結局、その回のコンペでは3次通過まで行き、それなりの手応えを感じたので勇気をもらい、その翌年の個展で同じテーマで個展をし、その作品で応募した今回のコンペで賞をいただくこととなりました。それもこれも、そのあのとき応募だけはしておこうと郵便局に行った弱気な私の小さな決断のおかげです。

そして、幸せな個展期間を終え、散らかった家の中でこれを書いているわけですが、これからはまた日常モードです。ただし、学校の仕事がなくなるわけなのでその「日常」自体も今までとは違います。週の半分会っていた同僚や学生たちと会えなくなるし、また、フリーランス一本で経済状況も変わるため、それに伴った家の整理もしなくてはなりません。わかってるのは、それらをここから、自分で立ち上げてゆかなくちゃ、ということです。そして、けっこう楽観的に「なんとかなるさ」とタカをくくってる自分もいます。個展のあいだ、訪ねてきてくれた卒業生たちに「大丈夫だよ。何とかなるよ。」と言っていたあの言葉は、自分に向けての言葉でもありました。先生も不安だけど、やりたいことがあるなら、やるしかないじゃない。ほんとうに、そう思うから。とにかく、動きます。どこに行けるかわかんないけど、おぼろげに見えるフラグに向けて。

2014/7/6(日)00:46

昨日弱気なことを書いたら、とある方からメールをいただき、寺田寅彦の「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」の文章が青空文庫に載ってるのを教えてもらい、浮上(単純。)そうそう、そういうことです。寺田さんとは、同時代に生まれていたら、きっといいお友達になれていたはず(大胆)。

個展最後の週末。引きこもって描いてます。たぶん、今がいちばん、幸せな時間だと思う。

2014/7/4(金)20:46

個展のための準備で、家の中も頭の中もカオス。
いよいよ来週の金曜日から、表参道のHBギャラリーにて,始まります。HBファイルコンペ日下潤一賞「NEO南画」〜油性マーカーで描く瀟湘八景図+α〜。期間は7月11日(金)〜7月16日(水)、11:00〜19:00(最終日のみ17:00まで)です。昨年の個展「マジック山水図」の作品集も販売します。なんと唐仁原教久さんがアートディレクションを、デザインをHBスタジオの白村玲子さんが担当して下さいました。とても、とても嬉しいです。
そして、まだ、描いてます。自分でも、同じテーマで立て続けに個展をするのは初めてのことなので、正直、不安です。というのも、仕事先等にDMを送ったものの、あまりにも反応が、ない。「南画」というのが分かりにくいのかも。「瀟湘八景図」ってナニよ、と思われているのかも。こんなの、仕事に繋がらないよ、と思われているんだろうな、と思いつつ、それでもこれしか今は描きたくないから、未だに模索して描いてます。ほとんどが全紙以上のサイズです。京都の表具屋に軸装してもらったものもあります。(経済的に全部は無理だった。)絵はさておき、その「軸」の出来ばえが、見事です。それだけでも観る価値はあると思うので、表参道に来られることがあれば、ぜひお立ち寄り下さいませ。(あぁ、全体的に弱気な告知。。。)

2014/6/19(木)20:18

アールブリュット美術館二日目。入り口のカウンターで、係の男性相手に「今日はフリーだと聴いたのだけど」と言ったつもりが、全然通じず、もたもたしていると、昨日受付で応対してくれた若い女性係員が二階から私を見つけて、係の男性に何か言ったあと、すんなりと入場できた。フリーの日でも、入場者はさほど多くはない。昨日、だいたいのところは見ているから、もう一度じっくり見たかったJohann HauserとGregory L.Blackstockの絵を見にまっすぐ二階へ上がる。展示室の一画に黒いカーテンで仕切られたエリアがあり、ちょうどGregory L.Blackstockの映像が流れていたので、一番前の椅子に座って鑑賞する。他には、誰もいない。ちょうどGregory L.Blackstockさんはカメラの方を向いて歌を歌っていた。その声がお世辞にもいいとは言いがたいダミ声で、それなのにとっても楽しそうにニコニコしながら、勇ましい戦歌のようなモノを歌っていた。来ているポロシャツの胸の真ん中には「ARTIST」の文字がマジックで手書きされている。しっかりとした筆跡で。自己肯定感で満ちた笑顔。いいなぁ。こんなふうにニコニコ笑いながら好きな絵を描いて生きてゆけるなんて。映像を見た後、再び美しい「青の線画」のひと、Laure Pigeonの絵を見にゆく。またいつか、この青の本物を見る機会に恵まれますように、と祈りつつ、しっかりと彼女の「青」を目に焼き付ける。Laure Pigeonさんの経歴はよくわからない。年代的にも、ほかの人たちよりも少し前の人らしく、もうとっくの昔に亡くなっていて、グギングのような集団生活もしていなかったから、彼女の末路については知る由もない。いつも思うのは、こういう人たちは、日々、どんな暮らしをしていたのだろう、ということ。何時頃に起きて、何を食べていたのか。絵を描こうと思うのは,何がきっかけで、描き終えたあと何を思うのか。日々の仕事や、人間関係で、へこたれることはあったのかしら。何のために、これをしているのかと考えることはあったのかな。アールブリュットの人に限らないけれど、絵に限らず、何かを創ることに魅入られてしまった魂は、そんな自分の気持ちと強力な日常の間に、どう折り合いをつけていたのだろう。そのことが、いつも気になる。
閉館ぎりぎりまでいたあと、再びショップに立ち寄り、さんざん悩んだあげく、Johann Hauserの厚めの画集を一冊を求めた。ふとレジの脇のガラス棚の中を見ると、Gregory L.Blackstockさんのビデオもあった。たぶん、上映していたものだろう。これは買わなくては、と迷わずこれも追加する。ありがとう、と言って美術館を出た。

時間はもう夕方で、今日もどこかで晩ご飯を食べなければならない。昨日散財した私だが、お昼を食べなかったので、それなりにお腹がすいていた。美術館のとなりに木々に囲まれた区画があり、その入り口に「オーベルジュ」の文字があった。敷地に入り、入り口に近づくと、若いウェイターが出てきて、フランス語で何か喋った。言葉はわからなかったが、どうも否定的なことを言っているように見える。どうやら時間が早すぎて、料理人がまだ休憩中で料理を作れないらしい。しかし、昨日のレストランで辛い目にあったあとなので、私はひるまずテラス席を指差しながら「待ってる。」と言った。ニコニコしながら「どうしてもココで食事がしたいの」というツラを下げた東洋中年女に、若いウェイターは「しょうがないな」という顔をして店に入り,奥にいる誰かに相談しているようだった。ほどなくして「オッケー。」と言いに戻ってきた。嬉しかったのは、それを伝えにきた彼が笑顔だったこと。「大丈夫だって。よかったね。」というような、吹き出しを入れたくなるような笑顔だった。外のテラス席に座って待っていると、彼が紙製のテーブルクロスとメニュを持ってきてくれた。値段は昨日のホテルほどではないにせよ、やっぱり高めだ。ミネラルウォーターとサーモンのラビオリ、というものを頼む。ほどなくして店内でごそごそと人が動く気配がする。どうやら休憩を早めに切り上げてくれた様子だった。暮れてゆく空の下でさっき買ったばかりのハウザーさんの画集を眺めながら待つ。ほどなくして出てきたラビオリは、クリームであえてあり、中はきれいなサーモンピンク一色だった。チャイブの葉が散らしてあり、おいしい。ひたすら、これを水で食べる。どんどん日は暮れてゆき、空がオレンジ色混じりの紫から群青色に変わってゆく。その空を飛行機雲が横切る。ほかに雲はない。月も出てくる。その月をカメラにおさめる。店の方へ常連客のようなオジサンが入ってゆく。もくもくと食べ続け、食べ終えた。単体のものを食べたわりには、満足した。食事のあとで注文したカプチーノにはスイスの国旗の包み紙のチョコレートがついてきた。ボナペティ、と言いながらさっきのウェイターがラビオリの皿を下げてくれた。一人旅にもだんだん慣れてきたな、としみじみしつつ、チョコをかじり、コーヒーを飲んだ。(続く)

2014/6/18(水)12:36

旅の続き。

ローザンヌ二日目。午前中にレマン湖畔にあるエリゼ写真美術館に行く。ここでフィリップ・ハルスマンPhilippe Halsman展をやっていた。(ライフ誌の表紙で、アインシュタインやモンローの写真を撮った人。ダリの髭の一連の写真などもこの人。)普段あまり写真展など見にゆかない私でも、写ってる人がヒッチ・コック、ピカソ、アンディ・ウォホール、など有名人ばかり〜コクトーの有名な写真「多芸多才の男」もあった〜なので、その人となりを観察するのが楽しくて、けっこう長居する。実は後日訪れたパリのポンピドーでも、アンリ・カルティエ・ブレッソン展をやっていて、そこで見たジャコメッティ等の作家、芸術家の写真もとても興味深かった。人物ポートレイト的には、今回のこの旅はなかなか恵まれていたと思う。

さて、美術館を出たあと、バスに乗り町の中心部へ出て、せっかくだからとローザンヌ大聖堂に入ってみる。ゴシック形式の窓の長い聖堂は、今まで見たヨーロッパの大聖堂の中でも、かなりさっぱりとした印象だった。清潔、整頓、公共心。木の椅子は質素な一つずつのが大量に整然と並べられている。スイスに来るといつも、この「公共」という言葉を思い出す。駅も町も一見、清潔で、市民が公平に協力し合って暮らしているように見える(実際、杖をついて歩く人や車椅子の人も目につく。)お洒落な人もあまりいない。イタリアやフランスで感じる、人間の持つ業の、良いところも悪いところも全部、そのまんま受入れて肯定するような、体温(体臭)を感じない。デオドラント。そのへん、長年王様が治めていたオーストリアなんかとも違う。(ウィーンのシュテファン大聖堂の地下に眠る歴代の王族の内蔵を入れた銅のお鍋がずらっと並ぶ様は異様だった。)チーズフォンデュだって、あれはマズいパンを誤摩化して食べるための料理だと思ってるし(スイスの小麦は収穫後1年間は備蓄に回されるらしくパンがあまり美味しくない。)国民皆兵制といい、スイスってのは位置的にも地形的にも、永世中立国にならざるをえなかった事情もあったりで、メンタリティがほかのヨーロッパの人となんとなく違うような気がする。少なくとも、アルプスとハイジの世界だけではないのだ。

そんなこんなで、さして面白くもない(スイスっぽさが味わえた点では、面白かったのだが。)大聖堂を出たあと、どこかで休憩しようと、近くのカフェに入る。近くに学校でもあるのか、友達同士のような若い人たちばかりのカフェは、奥の棚に本や雑誌並び、その前の小さな平台には、近くのギャラリーのフライヤー等が雑然と置かれていた。東洋中年女はその平台の隣の小さなテーブルについて、場違い感を漂わせつつ、カプチーノを飲んだ。ふと、積み重なったチラシの中に日本語が見えたので、手をのばして引っ張り出すと、日本人の写真家の展覧会の案内だった。「フクシマ」という文字が見える。震災のあと、福島で写真を撮り続けた、とある日本人(男性)のもの。「真実の写真」というような言葉が日本語で書いてある。ほとんどが英語なので、詳しい内容を理解することはできなかった。そのままそのチラシを元に戻し、支払いを済ませてからアールブリュット美術館に向かった。(続く)

2014/6/11(水)0:10

ここしばらく更新していないうちに、いろいろなことがありまして。

まず、五月の終わりに二期生との飲み会があり、朝帰り(!)。19時スタートの、3次会で解散したのが朝の4時半。夏至が近いから、この時間だともう明るい。チュンチュンとなく雀の声を聞きながら、じゃあねと手を振り、誰も歩いてない御池通をとぼとぼ歩いて始発の京阪に乗る。眠たかったけれど、楽しかった。二期生は、いま25歳〜27歳くらいの人たちで、私がイラストレーターとして初めての仕事をもらったのが27歳だったっけ。18歳くらいから知ってる人たちは、もうそういう歳になったのね。そんなことを思いつつ。

そして飲み会の前、ある人の墓参りに行ってきた。亡くなってからもう一年。東山の五条をずっと上ったところの、緑のきれいな墓所だった。四月に亡くなった同僚の四十九日も過ぎた。彼らを「そこ」に残したまま、私たちはどんどん日常を送り、歳をとってゆく。不思議なものだなと思う。どう不思議なのかも、考察する時間もないのだけれど。ひとつ言えるのは、だんだん、あちら側とこちら側の区別が曖昧になってくるようだな、ということ。

そして、先週末は京都で一期生の結婚式。娘くらい歳の離れた若い人たちの、久しぶりにちゃんとした結婚式披露宴に出席。。うん。しみじみと「いい披露宴だったねぇ」と心の底から言いたくなるような披露宴だった。

そんなこんなで、来月には個展があります。詳細は、近いうちに告知します。

2014/5/16(金)17:30

腸炎で休ませてもらってる間に、旅のことを更新。

スイスの物価は高い。初日の晩ご飯をどこで食べようかとホテルの周辺をうろついて、お客さんで賑わうピザ屋の前に足を止める。店の前に出されたメニューをさらっと見て、その高値に目を疑った。マルゲリータのピザが3000円!?何かの間違いかと思い、他のメニューもじっと見たが、だいたい26CHF(そのときのレートで1スイスフランは約110円〜だったと思う。)以上。外から見る限り、客層は日本のファミレスにいるような普通の家族連れか、若いアベックで、店構えから見ても特段高級店ではないようだ。うぅむ、これはレマン湖畔価格なのかと考えて、ほかを探すことにしたものの、10分で挫折。近場にあるのはどこも似たような価格か,それ以上だった。それならいっそ、もっと安い店があるかもしれない町の中心に出てしまおうかとも一瞬考えたが、日も暮れた繁華街に言葉もロクに喋れない東洋中年女ひとりで出るには怖すぎる。小心者のわたくしは、財布の危機よりも身の危険の回避を優先するので、ここは財布に痛がってもらうしかない。そして、どうせ痛がってもらうのなら、少しでも美味しいものが食べたい。

実は、旅に出る前、予約したホテルのレストランが美味しそうであることはリサーチしていた。ただ、そのホテルのサイトに掲載されていたメニューの値段(パスタ一皿が3000円〜)に「あり得ない」と速攻で却下していたため、ハナからここに行く気はなかったのだが、近隣の店の事情がわかった今となっては、それほど高値にも感じなくなっていた。清水の舞台から飛び降りるつもりでその店のドアをあける。緊張した顔で転がり込んできた東洋中年女一人を一瞥したウェイターは冷静な目で、予約しているか、と聞いてきた。「してない。」と答えると「今日は予約していない客はダメだ」と冷たく宣告した。いつもの私なら、そうですか、失礼しました…とすごすご引き下がるところだが、なぜかそのときの私は強気だった。「私はここのホテルに宿泊してるのだ。」と子どものような英語で訴えてみたところ、仕方ねーな、というような顔をされ、店の一番奥の、厨房に一番近い二人がけの席に案内してくれた。ありがとう、とお礼を言いながらも、どうみてもよい席ではない席に案内されたことにちょいと傷つく。まわりを見渡すと、席なんていくらでも空いていて、向こう側の席に座った地元の裕福そうな家族連れにには、ニコニコと笑顔で対応しているさきほどのウェイター。むかつく東洋中年女。

メニュを凝視して、ルッコラのサラダ/パルメジャーノチーズのせ、というのと、アスパラガスのリゾットと炭酸水を注文した。さきほどのウェイターが私の前にドンとカトラリーを置いたあと、別のスタッフが水とつきだし(のようなもの/オリーブがいくつか入った小皿とクラッカー)を持ってきてくれた。このスタッフが笑顔でニコニコしていて、ボナペティと言ってくれたおかげで、さっきまでこんな店に入るんじゃなかった、と泣きそうに後悔していた気持ちが、すこしおさまる。オリーブを食べながら、まわりを見渡すと、ぼちぼち他の席も埋まりだしていて、私の隣にも老年の夫婦が案内され、にこやかに会話しだした。ほんとうに、今夜は予約でいっぱいだったのかもしれない。運ばれてきたルッコラのサラダは、山盛りのルッコラの上に小石のようなパルメジャンチーズがゴロゴロのっていて、それにオリーブオイルと酢をかけていただくようだ。何のひねりもないサラダだな、と思いつつ、パルメジャンチーズの豪快な使い方は新鮮で、ルッコラとの配分を間違った私は最後は余ったパルメジャンチーズだけをぼそぼそとつつくことになった。こんなとき、チーズ好きのMさんならきっと喜んでワインと一緒にパクパク食べるのだろうなと思いつつ、そんなにパルメジャンチーズ(しかも塊の)が好きではない私は「猫に小判」の気持ちで、大きいものだけをいくつか口に放り込み、炭酸水で流し込む。

続いてやってきたアスパラガスのリゾットは、真っ黒だった。一瞬、自分が何を注文したのかわからなくなり混乱する。これは私が注文したアスパラガスのリゾットなのか?ウェイターをつかまえてそれを訊く機転も勇気も語学力も持ち合わせていなかった私は、そのまま、反射神経でスプーンを持って食べ始めた。意外なことに、すっぱい。ところどころに赤い繊維質のものも見える。そしてなかなか滋味のある味がして美味しい。これがアスパラガスのリゾットかどうかは、もうどうでもよかった。「ローザンヌにくれば、アスパラガスのリゾットも、こんなふうになるのかもしれない。」と思いながら、モクモクとそれを食べた。

食べ終えたあと、カフェを注文して一服してからお会計をしてもらった。合計8,000円近い金額になる。初日の晩餐、しかも一人でするには予算オーバーもいいところだった。「ごちそうさま。ありがとう。おやすみなさい。」と日本語で言いながら、ほぼ満員の店をあとにして部屋に戻った。(続く)

2014/5/14(水)14:30

先週末、用事があって銀座へ出たついでに司でピンクの鉄仙を見つけたので、母の日に間に合うように送ってもらうことにした。(日頃の親不孝をこいうときに穴埋めする娘)メッセージカード、書かれますか?と店員さんが出してきたカード見本には、「おかあさん、ありがとう」の文字があらかじめ印刷されていて、それを見ただけでひるんでしまい「けっこうです。気恥ずかしいから。」と断る。50年も母娘をやっていると「ありがとう」という気持ちも重層構造になっていて、単純な感謝の気持ちだけでは片付かない。母と娘はこじれるとこじれますね。でもやはり血縁。「そういうところ、嫌い」や「ほっておいて」や「どうしていまその話しをするのかな」や「私の話もきいてほしい」をひっくるめても、この人がいなければ私はいなかったわけで、こんな思い通りにゆかず、話し相手にならない娘を持ってしまった母の方こそ、いい迷惑だと思っているのかもしれないし。煎じ詰めればしょせんは他人。その他人のせいで、彼女の人生の多大な時間を使わせてしまった娘としては「母の日」なんていう世間のテンプレ行事はありがたい。

支払いを済ませ、用事を済ませてから京都の家に電話する。母はいま自由に歩きにくいので、宅配便が届くことをあらかじめ伝えておいた方がいいと思ったからだ。「明日、花が届くからね」と言うと「母の日やね、ありがとう。」と母。そうそう、そうだよ、自分から「母の日」だなんて気恥ずかしくて言いたくなかった、ひねくれた娘の心情をわかってくれてありがとう、と思いつつ、母のその「ありがとう」の声が、ほんとうに「ありがとう」と心がこもった声だったので、逆に恐縮してしまう。そんなにしみじみした声でお礼を言われるほどのことをしたつもりはない。母は子どもの頃からお金に苦労をした人だったから、娘が自分のためにお金を使うことを心苦しく思っているのかもしれない。こういうときの母の「ありがとう」は「申し訳ない」が滲んで見える。50歳までなんとかかんとか生き延びてきた娘のことを、母は未だに心配している。ちゃんと食べているか、病気はしていないか。「大丈夫だよ」と返事しながら、いまの私の苦労をあなたに言っても、どうすることもできないでしょうと娘の方は諦めている。そしてそれがあたりまえだということもわかってる。そういう母の(私から見ると)ピントのずれた心配に「大丈夫だよ」と答えることで、なんとなく親孝行している気持ちになる。「猫は元気やよ。おしっこばっかりするの。人間の年寄りと一緒やね」と、3日前に話したことを繰返す母。うん、わかった、火曜日には戻るから、と言いながら電話を切る。なんだかな。こういうふうな、ささやかな日常の会話を重ねたまま、肝心の言葉は何も伝えられないまま、甘えた娘のまんま、いつかこの人と永遠に別れてしまう日がくるのかもしれない。

そうこう言ってるうちに、娘の方は週明けの月曜の夜から吐き気、下痢、腹痛をもよおし、火曜日の朝には病院のベッドで点滴を受けていた。急性腸炎。幸い大事にはいたらず、帰宅後大人しく寝ていたら改善しつつあるものの、さすがにこれでは京都には戻れない。母の心配は娘の思惑の枠外で、はからずも大当たりした次第。とほほ。

2014/5/11(月)12:40

夏に個展があるため、週末はこもっているものの、あまりに季節がよいので、ゴールデンウィーク中、1日だけ高尾さんに行ってきた。ラッシュ。リフトに乗るだけで90分待ちだと言われ、もうこれは歩いて登ろうと観念して初めて徒歩で登り、人でごったがえす頂上を少し下ったあたりでお弁当を食べ、そのあと6号路をつかって下山した。久しぶりの登山なので、翌日はさぞや筋肉痛になるだろうと覚悟していたのに、不思議なことにほとんどない。お弁当に入れた鶏ムネ肉の唐揚げがよかったか、それとも登りも下りも歩いたおかげで、足の筋肉をバランス良く使えたからか。ともかくそれから駅のエスカレータも駆け上がれるようになったですわよ。足腰は大事。

あと、東博で開催中の栄西と建仁寺展にも行ってみた。明恵さんのお手紙、海北友松の屏風絵なんかがよかった。あとはたいてい、仕事。有り難いことに、いろいろとお声がけをいただきながら、不義理をしております。もう少し、お時間下さい。

2014/5/6(月)21:37

少し前のことですが、書いておきたいこと。先々週の土曜日、大学の御師の退職記念パーティーが大阪であったので出かけてきた。ひとつ上のゼミの先輩が誘ってくれたのだが、なぜ私を誘って下さったのか謎だった。でも、これも何かの縁、と出かけてみた。大阪は肥後橋を少し南に下ったあたり、ビルの地下にあるイタリアンレストラン。先輩たちとは、在学時代に一度だけ、一緒に常神に魚を食べに行ったことがあった。それ以来の親交はほとんど(というか同じクラブだったM先輩以外には、全く)ない。そのM谷さんの隣にくっついて、話に混ざる。卒業して30年近く経ち、デザイン学科を卒業したみなさんは、現在それぞれいろんな人になっておられる。デザイナー、広告業、ゲームクリエイター、女優、お店をしてる人、先生、主婦、皆それぞれ。私を誘ってくれたSさんは、なんと女になっていた。二次会のSさんのお店に行くタクシーの中で、高校の美術部の先輩でもあったOさんとKさんと一緒になった。高校の美術部だった頃、私に美大という進路を目指すきっかけをくれたお二人。このお二人が進んだから、私はこの大学に入った、と言っても過言ではない。同じ画塾だったこともあり、そのアトリエの先生の話や、最寄りの駅のものすごい開発ぶりについてなど、ローカルな話題で盛り上がる。お一人は東京、もうお一人は鹿児島と、今どうしているのかもよくわからないままだったけど、卒後30年近く経ち、お互い生き延びて夜の大阪で話しをしてるという、その状況が不思議で、まるで現実じゃないみたいだった。

Sさんの店でわかったのは、Sさんが私を誰かと間違えて、この会に呼んでくれたということだった(つまり私のせいで、呼ばれなかった誰かがいるはず。)Sさんのことは、在学中にも知ってはいたが、地味な私のことなんかご存知ないと思っていた。そのSさんが女になって、綺麗にお化粧をして、酔っぱらって、ニッコリ笑ってハグしてくれて、なんだかとっても嬉しかった。たとえ人違いだったにしても。店を出たあと、最終電車めがけて走りながら「ここ、どこですか?」「さぁ。」と誰かと会話しながら、堺筋で逆方向のタクシー止めて「北浜、お願いしますー」と叫び、またねー、と手を振る。私が出た大学の空気感が、そのままそこにあったような夜だった。

2014/4/26(土)13:00

気分を変えて、少し旅のこと。

ローザンヌ一日目。アールブリュット美術館を出たあと、2番のバスに乗って帰途についた。2番のバスは坂の上にある美術館から、ローザンヌ駅を縦断して坂を下り、そのまま湖の畔のホテルまで一本で戻ってこられた。ホテルの前のコープで、店員が出したばかりの温かいソーセージ入りのデニッシュパンと、温州みかんのような形のオレンジを二つと、エビアンを一本買った。ホテルにチェックインしたのち、荷物をほどき、Wi-Fiが繋がることを確認してから、これらを貪って食べた。気付けばトルコ航空の機内食で出た朝ご飯以来、何も食べてなかった。部屋の前には夕暮れのレマン湖が見えていて、まだ夕方で、そぞろ歩く人がちらほら見える。お腹も満ち、さて、これからどうしようと思案して、部屋にこもってるのももったいないので、もう一度外に出てレマン湖のほとりを散歩することにした。

ホテルの前の道を渡り、フェリー乗り場(対岸のフランスの町、エビアンへ渡れる)の埠頭までぶらぶら歩いてみた。係留されたヨットのマストが何本も立ち、移動式メリーゴーランドの電飾がきらめいていた。スケートボードをする男の子たち、手をつないで歩くカップルの脇を抜けて埠頭の先端まで歩く。晴天の夕暮れ時の美しい空のあちこちに、白い飛行機雲が4〜5本見えて、あぁ4年前にベルンに行ったときもそうだったと思い出す。あの時。クレー・センターの前の土手から見上げた空にも、白い線を従えた幾本もの飛行機が、てんでバラバラの方角にゆっくりと移動していて、まるで衛星のように見えたのだった。こういう空の景色は、スイス以外では私は見た記憶がないから、スイスの上空はたくさんの飛行機が飛んでるのかもしれない。ヨーロッパの主要都市を線で結ぶとき、その多くはスイスの上空を通過するから、こんなふうに何本もの飛行機雲が見えるのかもしれないな、とぼんやり考えていると、ふと近くでワイングラスの音を聞いたような気がした。レストランで時々聴くことのできる、上質のワイングラスを合わせたときに響く「ティン!」という音だ。でも、ここは、外、である。テトラポットが並んだ埠頭の先、である。え?と思ってあたりを見回すと、埠頭の先のコンクリートに、二人の男女が腰を下ろして、赤ワインの入った大きなワイングラスを掲げているのが目に入った。30代くらいの若いカップル。明るい色の髪の毛をした男性の方はツバ付きの帽子をかぶり、女性は暗い色のコートに同じ色の長い髪をしていた。二人は楽しそうに笑いながら、時折ワインを飲んでは、また語らう。グラスを通してみるワインの深みのある赤が、夕暮れのオレンジと青のグラデーションの下で美しく、なんともお洒落な景色を目の前に、東洋から来た黄色い猿はしばし見とれてしまった。

そういえば。以前、イタリアからドイツへ抜ける途中の列車の中で、スイスから乗ってきたオヤジが、おもむろに鞄(普通のビジネス用の鞄だったと記憶している)からワインボトルとワイングラスを出してきて、白くて丸いチーズをつまみにワインを傾け始めたことがあった。決してお洒落なおヤジではなく、ごく普通のオジサン、である。私は隣の席でそれを眺めつつ、これは日本のオヤジに置き換えた場合「ワンカップにサキイカ」ということなのかも、と合点した。足を組んだオヤジの足下から見える靴下には、牛のワンポイント刺繍がしてある。ネクタイも牛柄だったような気がする(あっちの人は牛柄が好き。)それから、しばらくしてからやってきた車掌と知り合いか?と思うほど、おしゃべりして楽しそうだった。そうなのだ、こちらの酒好きは、マイ・ワイングラスを持ち歩くのだ(たった二例で断定。)

レマン湖のカップルは、風がふくなか、しばらくずっとワインを傾けていた。私も背後から、夕暮れ空と一緒にそれをずっと観察していた。対岸のエビアンに渡る船が出航し、埠頭の先でゆっくりと方向転換するのを眺めてから、ホテルへ戻った。続く。

2014/4/22(火)23:25

あー。昨日は良い夜だったなぁ。同年代の同業の友達が京都に来ていたので、一緒に京都駅地下のイノダでお茶をしたあと、京都の街中にあるクラシックのライブハウスみたいなカフェへ行って前衛音楽を聴いて、そのあとでお酒(私はジュース)飲みながらおしゃべり。歳をとってからの女友達というのは、まさに「有り難い」存在。ここ最近の、ちょいとささくれていた気持ちに、しゅっと水が沁み込んでいくような。自由でいられて、何が悪い。いられるなら、いていいんです。というようなことを(彼女は違う意味で言ったのかもしれないけど)言い切ってくれた彼女の柔らかな声。優しかった。

2014/4/18(金)19:21

4月に入ってから、いろんなことが起こり過ぎていて、気持ちが毎日変わり、何について日々メモを書けばいいのか、わからなくなってます。この齢にして、この変化はなんだべ?…きっとこれは人知を越えた、天の采配(言い切る)。たぶん、私の力ではどうにもならないので、もう「天」の出方を見守るしかありません。天さんの手下のメアリーさんもいることですし、とりあえず目の前の仕事を粛々とこなします。はい。

ということで、今日はとある方にお会いしてきた。都電荒川線に乗って。やはり人に会って話すことは大事。おかげさまで、目の前の道が少し明るい方に伸びた気分。はう。やってみる。

2014/4/12(土)21:33

ちょこっとお仕事の告知。「考える人」春号が届いた。この号からイラストレーションを描かせていただいてます。「向井万起男のどんな本、こんな本」という書評のページです。特集は『海外児童文学ふたたび』で、これもおもしろそう。さげさかのりこさんの「娘と私」のお話にちょっとほっこり。

2014/4/11(金)15:07

大学の桜も今が散る盛り。登校して、曇って黄色がかった空を背景に、風にあおられて舞う花びらを明窓館の下の階段から見上げると、現実味のない風景のようで、切ない。今年の桜はたぶん、これから先も忘れられないと思う。

それでも日常はずんずん進む。実家の方では母が退院してきて、私の家で暮らし始めた。地域包括センターの人や、生協の宅配なんかの外部のお世話を借りながら、リハビリに通い、猫の世話もできるようになり、食事も自分で好きなものが作れるようになった。実家の父も食事ごとにこちら側に来て母と一緒に食事している。私が混じるといろんな意味で難しい我が家なので、私はそのときは遠慮して二階にひっこむことにしているが、父と母だけが猫を交えて一階で団らんする、その何気ない日常会話を上の階から聴いているだけでも、けっこう和む。あとどれくらい、この穏やかな日常が続くのだろうと思うとちょっと切なくもあるが。猫の力に感謝。

2014/4/9(水)12:04

3月30日、同僚のZ先生が亡くなった。お通夜と告別式には、教え子をはじめ、たくさんの人たちが集った。東京から駆け付けた卒業生たちも少なからずいた。8年前、大学のコースの立ち上げ時に恩師から声をかけていただき、そのとき一緒に招集されたのが二つ後輩の彼だった。結局私は専任を2年半で辞め、そのあとは特任という立場になったけれど、それでも週のうち3日は学校に通っていたからしょっちゅう彼には会っていたし、授業のことや学生のことについて、一番相談してきたのも彼だった。

彼が亡くなって、彼のことを文章に書きたいと切実に思った。彼のことを書こうと思えばネタはいくらでもある。学生時代のことはほとんど記憶にないが、大学では有名な人だったから、あとから聴いたエピソードも数えきれないくらいある。でも、一旦は書こうとして、結局まとめきれないでいる。彼の死からまだ10日で、そんなに急がなくてもいいと思う一方、彼について、今自分が感じていることを、今言葉にしておかなくては、という思いもある。なのに全然まとまらない。いや、まとめたくないのかもしれない。新年度になっても彼の机の上はまだそのままだし(いろんな理由による)、今にも授業を終えた彼がジーパンのポケットからぶら下げた鎖をジャラジャラいわせながら、スタッフルームに帰ってくるような気がするし、まだ学校のどこかに彼がいるような気がしてしまう。今ごろはどこかで長ーい会議をしていて、ここにいないだけなのだ、と本気で思ってしまう。彼の不在が全然受入れられないまま、他の同僚たちも、ごく普通にプリントを作ったり、学生と雑談したり、スマコさんのケーキを食べたり、起案書を書いたりしている。もしかしたら、彼はちゃんと、そこにいて、いつものように学校のことを心配しながら見守ってくれているのかもしれない。いや、彼のことだから、じっとしていられなくて、流しでコーヒーを淹れたり、パソコンに向かって書き仕事してるかも。「あっ」とか「しもた!」とか言いながら、コーヒーとスマコさんのケーキを食べながら。

Facebook上では、学生たちが彼についての言葉を綴ってている。みな驚きと悲しみと感謝の言葉だ。読んでいると泣けてくる。それに私も参加したいと思う。教員という立場ではなく、一人の友達として。そう思ってこの文章を書き始めたが、どんどん長文になってしまって、何を語っても語り足りず、語らないことに大切なモノが取り残されてゆくようで、なかなかちゃんと書けない。それに、ここで彼について書いてしまうと、私にとっての彼の「不在」がひとかたまりの言葉の「石」になり「実在」するモノに変わってしまう、そんな気がして、そのことを畏れているのかもしれない。全然まとまらないよ、ぞえさん。まとめたくないし、私の文章力と乏しい語彙では、あなたのことをうまく説明するのには無理があるのかもしれないね。

とにかく、少しずつでも、彼のことを言葉にしてゆこうと思っています。そのときどきの気持ちを観察してみます。とにかく、私にとっては、同僚として、人間として本当に大好きな人でした。たぶん、多くの学生や同僚にとっても、そうだったと信じてます。そんな人と、一緒に学校に関われたことは、本当に幸せなことでした。感謝のことばしかありません。ありがとう(まだ過去形にはしないよ。)

2014/3/31(月)00:01

昨日は学長の送別会。46年間、ずっと大学人であった人。私を大学に呼んでくれた人のひとりでもあり、07年から一緒に授業をさせて(とはいえ、私は補佐的なことだったけど)いただいた方。ここ一年、ほとんど喋る機会がなかったから、昨日はずっと近くでお話できて楽しかった。私の毒舌をそのまま面白がって会話して下さる、希有な先生。これからも、どこかでお世話になりたいと願っております。どうぞよろしくお願いします。

2014/3/26(水)20:15

旅日記続き。アールブリュットミュージアム。作品についての説明がこんなにもどかしいと思わなかった、と思うくらい、今回の文章はもどかしいかもしれません。百聞は一見にしかず。今の私のサイト環境では、お恥ずかしいことに画像のリンク方法がわからないので、興味を持った方は都度、作家名をコピペして画像検索していただけると理解しやすいと思います。

アール・ブリュットについて、ほんの数年前まではよく知らなかった。4年前に大学からの研修旅行でウィーンのマリア・グギング芸術家の家(精神障害者の人たちが作品を作りながら共同生活を営む施設)を訪れて以来、この天衣無縫な人たちの作品の持つ、抗いがたい魅力と強さに打ちのめされ続けている。今まで、グギング、フランスのリール現代美術館、そして今回のローザンヌと、纏まったアールブリュット作家のコレクションを見てきたが、どこでも作家名はほとんど頭に入らない。「あ、あの人のだ」と思うだけである。誰が描いたものだって関係ない、絵そのものが持つ迫力、表現することにブレーキを使わない(使えない)人たちの作品は、作品だけで屹立するどうしようもない存在感があって、誰が描いたとか、いつどこで描かれたとか、これが何であるか、とか、そういう絵に付随する情報など、どうでもよくなるからかもしれない。

ローザンヌのアールブリュット美術館は、第二土曜日がフリー(無料)だった。事前に調べていたネットの情報にはそう書いてあった。そのつもりで中に入るとカウンターには誰もいなかったので、右手にあるロッカーへ荷物を入れ、コート掛けにコートを掛けた。カウンターを見るとロングヘアの男性係員がいたので「ボンジュール」と話しかけると「ボンジュール」と返ってきた。そしてそのまま展示室へ入る。

「ビークル」という企画展をやっていた。乗り物、である。一階は電車や車、自転車など「陸」の乗り物の絵が並んでいた。入り口すぐ左にあるWillem Van Genk作の地下鉄の絵を見たとたん、あぁ、やっぱり来て良かったと思った。これは立派なイラストレーションだ。振り返ってみるとFranzKernbeisの(たぶん)バイクの絵があって、100号くらいなのに、白い紙にクレヨンでおおらかにガシガシ塗られている。日本人モトオカ・ヒデノリ(本岡秀則)さんの電車の前面だけを並べた絵の原画がA3よりも小さいことに驚いた。Anton Dobayのどこか羽根をもがれたような飛行物体もかわいい。真ん中のケースの中を除くと、手帳くらいの小さな紙にボールペンでウジウジと塗りつぶした青い芋虫のような固まりがいっぱい描いてあって、視点を合わせてじっと見つめていると、そこにパトカーや消防車やヘリコプターや旅客機が現れた。馬に乗っている人や騎兵隊、銃を構える人もいる。それぞれがたった10ミリ以下のボールペンの線を塗りつぶした集積で、一見したただけではただの紙の汚れのようにしか見えないのに、目をこらすとその乗り物のうごめきや地面までが立ち上がる視覚のメタモルフォーゼ。それに気付いて一人でテンションが上がる。この作家はFeng Shi Yiという人だった。中国の人らしい。二階には「空」と「海」の乗り物の絵。Johann Hauserの人参のようなロケット(オレンジ色の細い三角形が何本もの線を吐き出しながらひょろっと飛んでいる)や、私の大好きな作家Gregory L.Blackstockの飛行機の絵もあった。幾人かの人がスペースシャトルやロケットの絵を描いていて、それが科学雑誌等にありがちな、メタリックな質感のシャープでリアルな絵ではなく、ヨタヨタと人の手でなぞられた外形と、手芸作品のような愛情を込めてちまちまと塗り分けられた色をしていてとても新鮮だった。

なんだろう。この文章を書いていて、いま、ものすごくもどかしい。見てきたものを、言葉にすることの限界。作家名なんか、どうでもいいと言いながらも、誰かに伝えるために画集をひっぱり出してきて、作家名のスペルを間違わないように打ち込む作業。違う、こんな冷静な頭で説明したいんじゃないのに。でも、言葉しかないから続ける。

常設展では、以前から気になっていたLaure Pigeonの原画があった。彼女の作品は去年リールの現代美術館で買って帰ったアールブリュット美術館の図録の表紙になっていて、何なのかがよくわからないけれど魅力的で抽象的な形と繊細さと強さが同居した線、深く沈んだような紺の色が好きだったのだが、ここで原画を見て驚いた。ナニ、このきれいな青は。私が見ていた印刷の色とは、全く違う、美しい青。紺(インディゴ)というより、群青(コバルト)に近い。この青を見られただけでも、ここに来た価値があったと思った。そしてその青の上の有機的な植物や女性の髪の毛を思わせる方向性のある線の集合は、作者の意図よりも、手でペンを持って線を描いているうちにできてしまった無意識の集積だった。ほら、よく人と話をしながらチラシの裏側に遊ぶように描く、あの無意識の線。その線を飽きることなく、3週間くらい描き続けて増殖させたらこんな絵ができるのだろうな、という感じの。そして、その結果が「美」としかいいようのない、ナニかになっている。きっと彼女の手には大きなペンだこがあったと思う(彼女に限らず、アールブリュット作家の作品の緻密さを見ていると、きっと彼らの手には立派なペンだこがあったと思ってしまう)。

三階の奥には、ヘンリー・ダーガーの部屋があり、十数点の作品が表裏のどちらからも見られるように天井からぶら下げられていた。ここで白状するが、私は彼の絵がそれほど好きではない。ただ、ジィさんのくせにフェミニンな色使いをすることと、情念が籠ってそうな画題のわりには軽やかでドライな彼の表現方法には一目置いている(私に一目置かれても嬉しくないだろうが)。だが、ここの美術館では彼の存在は薄かった。私は彼の部屋に入る前にHans Krusiの牛の絵につかまる。棒のような4本足を持つグレーの牛が8×4段、合計32匹(一部人間も混ざってるから29匹)の牛が、ほぼ,同じアングルで空色の升目に入って並んでいて、その棒のような足と点の目がチャーミングでたまらない。これは絵としてはどうってことはない(だろう)けれども、この絵には、抗いがたい魅力があった。隣には牛乳パックに牛や人の絵を描き連ねたものもある。「ミルクミルクミルク」と三か国後で表記されたスイス(だと思う)の牛乳パックが7×3段並んでいる。作家の写真を見ると、お茶目なチェック帽をかぶった白髭の爺さんだ。手には小さな銀色のピストルを持っている(なぜ?)。ミルクが好きだったのね、と思わずにいられない風貌だ。

そんなこんなの作品群を浴び、どっぷりと疲れる。結局、閉館時間までここにいた(この時点で日本を出てから24時間以上経過しているが、全然眠たくなかった)が、まだ見尽くした、という実感はなかった。出口のショップで本棚を見ると、欲しくなるものばかりある。企画展の図録とGregory L.Blackstockの画集をとりあえずレジに持ってゆき、そこでふと思い立ち、Laure Pigeonの作品集はないか、とレジの学生バイトのような若い女の子に訊いてみたところ、あぁ、それなら、と言いながらレジを出て、本棚の隅っこに並んだ、ごく薄いリーフレットのような一群をチェックしてから、彼女のはない、と残念そうに言った。作品集にするほど、Laureさんの作品はないのかもしれない。わかった。とこたえつつ、この本棚には、ほかにももっとたくさんのお宝画集がありそうな気がした。せっかくローザンヌまで来たのだから、明日も来てもいいかもしれないと思い、会計をしてもらうとき、明日もこの美術館は開いてるか、と聞いてみたところ「開いてる。明日は無料で入れる日よ」と教えてくれた。え?タダなのは今日じゃなかったのか?と訝しみつつ「ありがとう。」と言って美術館を出た。(つづく)

2014/3/25(火)18:58

卒業式が終わり、東京に戻ってきた。今年の卒業生は5期生。そして今年の卒業式は私にとっても、最後の卒業式。ちょっと感慨深い。(このことについては、いずれまたちゃんと書こうと思います。)

それとは別に。ヨーロッパに行ってきたことについて書く。毎年恒例のいつもの研修旅行だが、今年は諸事情があり、まず一人でローザンヌに行ってから、パリでみんなの到着を待つことになった。全行程10日間。ローザンヌにはアールブリュットの美術館があり、4年前の研修旅行では改修中だったため見られなかった。そのときはスイスのベルンからパリに向かう途中で、みんなで駅のロッカー(一つ800円近くする。しかもスイスフランのコインしか使えない。)にスーツケースを入れ、さぁバスに乗ろうとした矢先、切符売り場の女性に「来年の春まで閉まってる」と宣告されたのだった。やむなく入れたばかりの荷物を出してそのままパリに鈍行で入った、あのときのリベンジを果たすべく(おおげさ)、今回一人でここに行ってみようと思い立ったのだった。これまで何度もヨーロッパに行ってはいるが、全く一人で行くのは初めてで、出発前はかなり緊張していた。入院中の母親に「大丈夫?」と何度も聴かれ、その都度「大丈夫だよ」と答えてはいたが、実は内心では不安だった。ネットで何度もシュミレーションをし、行くべき場所の情報を漁った。日本で取れるものは取っておこうと、ホテルはもちろんTGVのチケットもネットで取った。いつもの半分の日程なのに、荷物の重さはいつもとほぼ同じだった。未開の土地に行くわけじゃあるまいし、とにかく財布とパスポートさえあれば大丈夫だと思ってきた自分が、実は石橋を叩いて渡るような用心深い人だったことに気付かされて、心底自分にうんざりした。そして、心配したまま、出発の朝を迎え、まな板の上の鯉の気持ちで関空に向かう。

関空からのトルコ航空は早朝5時、イスタンブールに到着、3時間のトランジットののち、ジュネーブへと飛び立った。窓の下にはアルプスの山々が連なる。「きれいな景色だから、窓際の席がいいですよ」と関空のトルコ航空のチェックインカウンターの、きれいなネイルカラーの係員の言葉に素直に従い、私は窓際に座っていた。おかげで、約3時間の飛行時間のほとんど、窓にへばりついて眼下の景色を眺めて飽きなかった。途中、魚の形をしたベネチアの上を通過。イタリアとスイスの国境あたりに点在する湖もいくつか見えた。アルプスの山々はすばらしく美しかった。快晴のジュネーブに到着したのが朝10時半頃で、関空を出てから18時間経っていた。ローザンヌはジュネーブからスイスの国鉄で45分の距離にある。スーツケースを拾って、地下のプラットホームに降りると、ちょうどいいタイミングで列車が入ってきた。列車を指差して「これ、ローザンヌに行く?」と、そのへんに立っていた若い男性に聞くと、彼は列車の側面に書かれた行き先を確認してから「イェス」と言ってくれた。スーツケース置き場に荷物を入れて、すぐ傍の一人用の席に座る。

眠たかったが、緊張感がそれを凌駕していた。目を皿のようにして、窓の外を眺めていたように見えたと思う。(実際は目を開けていただけで、ほとんど何も見えていなかったような気がする。)ローザンヌに到着し、慌てて荷物を降ろし、ホームに降り立つ。4年前にもくぐった駅舎の出口に向かったが、思い直してインフォメーションを探す。うまく見つけられずにそのまま2周し、結局諦めて駅を出て、向いにあるバスのロータリーで切符を買うことにした。自販機と格闘しつつ、1.9スイスフラン(約210円)の1ゾーン用の切符を入手。バスの路線図を睨みつけても、いまひとつわからないので、そのへんにいるオジサンに「ウシー地区に行きたい」とホテルのある地区の名前を告げると「向こうの道を渡ったマクドナルドの隣から地下鉄に乗れる」と教えてくれた。買った切符を見せて「これ、使える?」と聞くと「イェス!」と教えてくれた。果たして30メートルほど真っ直ぐ行った先にマクドナルドがあり、その横に地下への階段がぽかんと開いていた。必死こいてスーツケースと共に階段を転がり落ちると、そこがそのままウシー行きのホームであった。しかも地面が斜めだ。ローザンヌはレマン湖を抱いた坂の街で、ウシー地区は一番低い湖畔エリアで、そこと山頂地区を垂直に結ぶ地下鉄2番線は、ほとんど登山列車のような角度で上り下りしている。しばらくしてやってきた平行四辺形の箱を連ねたような地下鉄に乗り込む。

地下鉄なのに、すぐ屋外に出た。このとき窓の外に見えた住宅地の景色が、実は私がかつて夢で見たことのある景色によく似ていて、心の中で地味に驚く。(余談だが、実は海外の旅先ではこういう、昔見た夢とよく似ている風景にときどき出会うことがある。細部をいちいち説明すると、全然別なものなのに、その景色の持つ空気感や、時間帯、光りが良く似ていて、もっとあとで思い返すと、どちらが現実の風景なのか判然としなくなる。判然としなくなる,といってもどちらが本当だったのかは、ちゃんと醒めた頭ではわかっているのだが、その曖昧さが楽しくて、思い出すときにわざとセットで思い出し、二つを混ぜてから記憶のタンスにしまい込むうちに、夢と現実、どっちがどっちでもどうでもよくなっている。)ガタゴトと坂道を降り、3つ目(だったと思う)の終着駅がウシーで、こんどはエスカレーターで地上に出ると、目の前にレマン湖があった。その向こうにはほぼ、正午の晴天の光りに照らされたアルプスを背景にしたエビアン(そう、あのミネラルウォーターのエビアンの水が出る街です。)が見えた。半袖の人もちらほらいて、日本は冬だったのに、ここは春のような陽気だった。ホテルは駅からすぐにあり、フロントでチェックインタイムには早すぎたため、荷物だけ預かってもらうことにした。フロントの若い女性にアールブリュットの美術館に行きたいのだけれど、と伝えたところ、地図をくれて「地下鉄に乗って6つ目のリポンヌ・モーリスベジャール駅で降りたら、広い広場があって、そこの広場の周り、全部美術館よ。」と教えてもらう。アールブリュット美術館は、街の中心から少し外れた場所にあることは知っていたから、彼女のアドバイスはたぶん間違ってるなとは思ったが、それ以上は私の会話力ではどう聴けばいいのかわからなかったので諦めた。別れ際に彼女はローザンヌ市内の公共交通機関が3日間無料になるパスをくれた。駅に向かう途中、キラキラと眩しい通りの角の信号を待ちながら、日本にいる父に電話をした。「いま、どこや?」「スイス。」「気ぃつけてな。」「うん。」たったそれだけの会話。

再び地下鉄に乗り「リポンヌ・モーリスベジャール」で降りる。「リポンヌ」はしっかりと覚えていたのに、後半の「モーリスベジャール」は「Mで始まる長ったらしい単語」程度の認識だった私は、この駅に着いた時、壁に掲げられていた仔猫を抱えた男性の写真を見て初めて、この「モーリス・ベジャール」が、あの「モーリス・ベジャール」だったことに気付く。あとで調べたところによると、彼は2007年にローザンヌの病院で息を引き取ったそうである。それどころか、彼のバレエ団の本拠地がローザンヌであった。ローザンヌといえば、バレエということくらいは知っていたが、学生時代に彼の振付けによるボレロを見て驚き、バレエに疎いくせにときどき彼のボレロについて一端に語っていた私は、ローザンヌと彼の関係には全くノーマークだった。あぁ、モーリスベジャールに関する何かがここにあるのだな。でも今はそれどころではない。アールブリュット美術館に辿り着かねば。

広場の角から向こうの道を路面電車のような長いバスが走ってゆくのが見えた。歩いていって停留所で路線図を睨みつけると、アールブリュット美術館方面に行けそうなバスがわかった。しばらくしてやってきたバスに乗る。坂道を大きく曲がりながら登ったバスは、ぐんぐんとまっすぐ進み、10分ほどで目的の停留所に着いた。降車ボタンを押してバスを降りると、美術館への矢印の看板が交差点にたっていた。横断歩道を渡り、しばらく行くと美術館の茶色い屋根と四角いガラス窓の中の白い二体の人形が見えた。旅に出る前、何度も何度もネットで調べて見ていた美術館の本物だ。(つづく)

2014/2/26(水)15:00

早いもので、どっさり雪を見た今年の二月もほぼ終わり。相変わらずほぼ、実家にいる。学校も春休みになり、卒展も終わり、ときどき雑務で出るほかは、じっと家にこもる日々。ここ数年の心の平穏は、実家とのやりとりが最低限だったからなのだということを、実家で毎日のように頻繁に懸案事項が持ち上がる日々を過ごしていると痛感する。よくも悪くも、肉親ってのは厄介。親の嫌なところを自分の中にも発見したり、自分の良さだと思う部分を親からもらったものだと思わざるをえなかったり。(あぁ、もうイヤ←心の声/小声)

そんな中、行ってきた「アンナ・ハーレント」。ホロコーストというテーマのわりに、思いのほか軽く、お洒落な映画であった。ドイツ語の響きもカッコよかった。何より、アンナ役の女優が、それほど美人でもスタイル良いわけでもないのに、くわえ煙草のカッコいい中年女性で、自分の意見を曲げない強さを持ちながら、ちゃんと夫にも愛されているのが新鮮だった。こういう中年女性って、日本では実在すれどもあまり描かれないタイプじゃないかしら(と乱暴に言ってみる。)

この映画、アイヒマンの裁判の場面で、当時のアイヒマンの実写映像を編集で入れ込んでいるんだけれど、この実写のアイヒマンの表情が迫力だった。いや、極悪人とか、そういう種類の迫力じゃなくて、細面で神経質そうではあるものの、小役人のような彼の外見と、彼がしたことのギャップに付随する迫力、というのだろうか。「彼が罪を犯した理由は彼が極悪人だからではなく、単に『思考能力がなかった』からだ」という彼女のセリフもスゴいが、おそらく、そういうことなのだろうと思う。自分で考えなくなったとき、人はなんでもしてしまえる。私も含めて。頭のスイッチを誰かに預けてしまう、ほんの小さな「譲り渡し」が、ここまでコトを広げてしまう事例は、私なりに過去の歴史の中で学んできているつもりだ。だから、アイヒマンを見たとき、私にも身に憶えのある表情をする人だと感じたし、自分の中の「悪人イクコ」とこれからどう関わってゆくかを問われたようにも感じた。

余談だが、私は自分の側だけに正義があると思える人が苦手だ。きれいに「あちらが悪い」と言い切れるだけの、根拠がわからないからかもしれない。だから赦す、という話ではなくて、自分のこととして、自分の中の「譲り渡し」を少しでも少なくしてゆくことが、私なりの戦いじゃないかと思ってる。戦う、というのも大げさかもしれないけれど。みんなで「正しさ」というバスに乗り込んで誰かを責めても、コトは変わらないと思うから。

…なんだか、大げさな話題になりました。明日は少しでもマシな人になっていたいです。はい。

2014/2/2(日)11:31

早くも如月。

一月は、ほとんど東京に戻れなかった。実家のことで京都に足止めを食らっていたからで、唯一戻れたのが中旬の二日間だけ。そのうちの一日、とある知人の自宅でのチェンバロを聴く会というモノに行ってきたので、そのことを書く。

この知人というのは、数年前から参加させていただいている「温泉の会」の方で、そもそもは、音楽(クラシック)が趣味の人達が作ったとある会(自分たちで宿泊できるちょっとした音楽会もできるホールを併設した家を長野につくり、年に数回プロの音楽家を招いては、演奏を聴いたり、一緒にご飯を作ったりして共同で運営しておられる)に、ひょんなことから私が参加させてもらったことがきっかけで知り合った。自宅にチェンバロがある、と聴いただけで、もう場違い感マックスな私(そもそも、クラシック方面に明るくない)がノコノコ行ってもいいのだろうか、と考えだが、京都の実家のことでこちらも気持ちがマックスに淀んでいたので、気分転換になるかもと思いきって出かけてみた。

その昔、まだ京都に暮らしていた頃、営業できた東京の打合せの合間に空いた時間で谷中のあたりをぶらついていて、近隣のこじんまりと掃除の行き届いた一戸建て住宅から、大人だけのパーティーのような楽しげな談笑の声がもれ聞こえてきたことがある。田舎暮らしのサルの耳には、一生縁遠い世界から聞こえてくるような、高尚な会話(何を話ていたかはよく聞き取れなかったが音楽のことや、文学のことだったと思う)に、彼と我の差にため息をつきたくなるような気持ちがしたものだった。私の親は中学校の先生をしていたが、出身は徳島の田舎で、家は貧しく、けっこうな苦労人である。それでも私が子どもの頃はそれなりに本を与えてくれたし、展覧会にも連れていってくれて(そのくせ私には『お前は恵まれている。父さんたちの時代には、戦争のせいでそんなことできなかった』が口癖だった)それなりにカルチャーはある家庭だと思ってきたが、東京に来て気付いたのは、元から東京に暮らす人たちのカルチャーは、次元が違う、ということだった(乱暴なくくりだけど)

田舎出の父が家を建てるとき、家具を揃えるのはすべからく「デパート」であった。ソファもシャンデリアも北欧の食器もぬくそうなスリッパもデパートからやってきた。家に飾る油絵さえも、デパートの画廊から買ってきた。子どもの頃は、そんなものだと別に何も感じなかったが、自分がヨーロッパに旅するようになり、父が自宅にこしらえた「洋間」が、実は「つくりモノ」であったことに気付く。畳に襖、木造の日本人の暮らし方に唐突に移植された「西洋っぽい」空間。デパートからやってきた根無し草的カルチャー。違和感。

今、偉そうに絵なんか描いて世事のことをあれこれ思い煩っても、なんだかんだ言って私の祖父母たちは貧しい農民や職人だったのだ。今日明日の食い扶持をどうするかでほとんど占められているような、そんな人たちの孫である私には「今日明日の食い扶持を維持するための最低限の暮らし」に必要なモノ以外は「異文化」だと感知してしまう田舎者センサーが搭載されている。デパートで揃えた西洋風の家具の中で交わされる会話は(あたり前かもしれないが)今日明日の生活のことばかりであった。けれど、くだんの谷中の一戸建て住宅から聞こえてきた談笑の声は、どこがどうとは言えないが「ホンモノのカルチャー」の匂いがした。作家の話、音楽家のこと、そういう高尚な香り。日常と非日常(自宅でのパーティー)、ハレとケの違いもある。しかしそもそも「自宅でパーティーをする」という発想自体が、ウチの家にはなかった。

長々と昔のことを書いたが、そんな奴が、自宅にチェンバロのあるおうちでバッハを聴く会というのに参加したのだった。そんな会を主催するには、まずなんと言っても「チェンバロ」がいる。自分の家にイタリアから取り寄せたチェンバロを置こうと思えなければできない。チェンバロを置くためには、おそらく調律師の人との関わりも必須だろうし、保管の仕方にも神経を使うだろう。デパートでほいっと買ってきて置きっぱなし、というわけにはいかないのだ。次にそれを聴くための少なくとも20人以上の「椅子」がいる。演奏会のあとの簡単な食事会のためには人数分のグラスや皿も必要だ。デザートを食べるときには、マグカップじゃなくて、それなりのちゃんとしたコーヒーカップも必要になってくる。複数の人が出入りする台所や、掃除の行き届いたトイレ等、その一切合切を、その方のご自宅は実現しておられた。チェンバロの向こうに見える壁一面の書棚の蔵書は、もう還暦を過ぎたその方の、蓄積された頭の中を覗き見させてくれていて、家族の都合に合わせ増改築されたらしい家の佇まいも、必要十分に工夫をされた品の良さがあった。デパートでポイッと外側だけを買ってくるようなウチの実家のありようが、恥ずかしかった。

音楽会のあと、家主のその方としばらくお話する機会があり、そこで会話の流れから「フリークライミング」の話になった。たまたま喋りかけた若い女性が、その方と一緒にジムに通っておられて、そのおもしろさをいろいろ教えてくれた。体幹を鍛えられる、普段使わない筋肉を伸ばすことができる等身体的効用のほか、上司にムカついてても登るとすっきりする効果もあるらしい。「それにね」とその女性が楽しそうに教えてくれたのが「登ってる最中に余計なことを考えてると手が滑って落っこちるんですよ」ということであった。私はこの「余計なことを考えてると落っこちる」というのがすごく気に入り、彼女にやってみたいと言ってみた。常日頃「余計なことをつい考えてしまう」タチの私にとって、そのあまりに容赦のない身体的反応は「頭でっかちになるな」という壁からの警告になってくれるような気がしたのである。訊けば、その「壁」はウチから歩いて行ける距離にあるそうだ。もうこれは「行け」という天からの啓示だと思うほかないではないか(おおげさ。)

まとまらないが、チェンバロの会に行って、フリー・クライミングに行こうと思った経緯を書いた。いま、親のことでいろいろと考えている。よくも悪くも、親子関係はついてくる。それを受け流せる強さが欲しい。無理解な世間と戦った「アンナ・ハーレント」の映画を見つつ、身内の無理解なんて、可愛いものだと笑って受け流せる強さが欲しいと切実に願う今日このごろである。(「アンナ・ハーレント」については、また書きたい。)

2014/1/25(土)15:13

いろいろと京都の家での雑用。来月から住まい方を工夫する必要が出てきたため、あちこち片づけるうちに、長年放置してきた不要品を一気に片づけたくなり、それが全部屋に及び、収集がつかなくなっている。今まで居間だけにあった暖房器具を、二階と寝室にも設置、猫だけは喜んであちこちの部屋で寝転がっている。

2014/1/22(水)14:02

吉田武先生の「呼鈴の科学」発売されました。

おもしろいです。電子工作とは一生縁がない、思っていた私でさえ、目から鱗がはがれました。電線を既に水(電気)のつまったホースに例えている説明が衝撃的でした。発電所はナニをしてるのか、についても、人生40数年間、誤解しておりました。別の観点から言うと、ほぼ全てのページが句読点できれいに納まっていて、ここにも他書には見たことのない、著者のこだわり(という言葉を使うと「違う」と言われてしまうかな、ま、いいや。)が詰まっていて(いい意味で)圧迫感/緊張感のある一冊です。うまく言えないのですが、こういう分野の読み物が苦手な人にこそ、手にとってもらいたい一冊です。ぜひぜひ。

2014/1/14(火)13:04

諸事情の上、4年ぶりに風邪で寝込んでしまい、未だ京都から動けず。年始からのハードスケジュールが祟ったようです。各方面に不義理がある(特に年賀状を出せていない人、多数。)のだと思いつつ、どうか赦してやって下さい。

ひとつだけ仕事のお知らせ。もう少ししたら、講談社現代新書からとある方の新書が出版されます。これに50点ほど絵を描いてます。去年の5〜6月頃から数ヶ月関わっていたもので、物理が大の苦手だった私のようなモノにとって「電子物理」という未知なる分野の読み物にしては、とても読み易く、面白いものでした。特殊相対性理論についても、とてもわかり易く書かれていて、特に中学生〜高校生くらいの若い人にお勧めです(理系に限らず)。一般の人にとって、電気という「現象」について、普通の理解が深まると思います。うまくいえませんが。詳しくはまた発売後(1/17以降)に。

2014/1/9(木)13:53

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。諸事情により、年明けからずっと京都におります。寒いです。気持ちがずどーんと沈みます。おまけに初詣に行った伏見稲荷のおみくじが「凶」でした。「おみくじ無料」の文字にふらふらーっと惹かれて近づいて、足下の石段に躓いて、思いっきり膝のお皿を石段の角にぶつけました。石って痛いです。特に冷えてる大きいのは。これもやはり凶のなせる技でしょうか。今年は慎重に暮らしてゆきます。いろんなことを反省しながら。ぶつぶつ。

2013/12/24(火)13:44

クリスマス・イブ。入り口にクリスマスの絵を飾りました。

2013/12/19(木)00:00

Facebookに先日の展覧会の様子をアップしました。HBギャラリーのスタッフの方が書いて下さったブログはこちら。とてもわかり易くまとめて下さいました。

2013/12/14(土)09:14

今年のHBファイルコンペ、日下潤一さんの賞をいただきました。

先日の個展のときの絵をまとめたファイルだったんですが、今まで賞に縁遠かった私、齢50手前にしての初体験に、めでたい気持ちよりも「これからどうしよう…」という戸惑いの気持ちのが勝っていて、少々戸惑っております。いや、たぶん何も変わらないんだと思います。が、「わーい、やったー!!!」と素直に喜べない(いや、喜んでるんですが…)自分の性格、ほとんど誰にも喋れない自己完結した感情を抱えたまま、粛々と日々の生活を続けている自分に我ながら呆れております。よくも悪くも一人っ子でフリーランスで友達少ないとこうなるんでしょうか。いや、そういう自分を改めて発見できたというだけでも、この受賞には意味があるのかも。このままでは孤独な婆さんまっしぐら。改善せねば…。

2013/12/12(木)02:07

師走はぐんぐん。もう中旬。いろいろと思うことはあるものの、最近言葉をつむぐことに時間がかかるようになり、書きかけては頓挫のくりかえし。たぶん、今はそういう時期なのでしょう。とりあえず、ショップに絵本を追加しました。在庫で家が狭いです。

2013/12/8(日)20:18

ついに師走に突入。久しぶりの学校は、展覧会やら卒業制作やら進路相談やらで、すっかり年末モードに突入。忘年会の予定も決めて、そうかもうそんな季節なのね。

絵本、京都の四条河原町下がる「メリーゴーランド」さんと東京の吉祥寺「トムズボックス」さんにも置いていただけることになりました。お近くの方はぜひ手にとって見てやって下さい。

2013/11/24(日)22:31

祖母の三回忌に徳島へ行ってきた。個展明けの翌日、新幹線で京都に戻り、その次の日に高速バスで徳島入り。部屋も片付かぬままの強行軍で、帰宅した翌日(本日)は一日緩み切っておりました。いろいろと書きたいことはあるものの、いずれまた。(こんなのばかりでごめんなさい。)

2013/11/22(金)14:48

個展、無事終了しました。とても充実した1週間でした。一部、否定的な意見もありましたが、不思議にそれが気にならなかった。やりたいことを私なりにやれたからだと思います。「気持ちいいね」と言ってくれる人が少なからずいたのがとても嬉しかったです。また近いうちにサイトに様子をUPする予定です。クリスマス絵本は完全自費出版のため流通していませんが、神保町のブックハウスさんで購入できます。今のところ、ここだけでの販売です。画像なくてごめんなさい…。

2013/10/29(火)23:25

個展のお知らせ。来月の11/15(金)〜20(水)まで、表参道のHBギャラリーにて、9回目の個展をします。
いつも仕事では使わない油性マジックを使って、山水画を描いてみました。どうしてこんなことになったのか、自分でもうまく説明できないのですが、とにかく、マジックでしゃらしゃらと線を描くのは楽しかった!おそらく、線だらけの個展になります。全日、在廊する予定です。そして、個展テーマとは全く関係のない、クリスマスの絵本も販売します。お近くにこられることがあれば、ぜひ、お立ち寄り下さいませ。

2013/10/25(金)17:20

今週は荒井良二さん。学科の講義とワークショップに二日連続で来て下さった。その場にいると、それほどの印象の強い人でもなく、お話もさらっとした軽い口調なのだけれど、特に仕事で絵を描く人には沁みるんじゃないかな、と思う言葉の数々。でも重くない。軽やかで、しなやか。(話の内容は学校のサイトでちょっと紹介しています(すみません、リンクの貼り方がわからない。精華大学→ブログで検索してみて下さい。)いろんなヒントをもらった気がします。荒井良二効果はなかなか、です。この効き目で個展までがんばりたいものです。

2013/10/18(金)14:57

昨日はiフォーラム終了後、4年生との飲み会。二次会で同業者のK先生の話をきけたのが楽しかった。就職することなく、ずっとフリーで生きてこられた人。人が増えるとそれだけ多様性が増えるから、いろんな考え方に触れられるのは楽しい。
そいういえば来週、とある装幀家の方の出版記念パーティーにおよばれしたのだけれど、ちょうどその日に4年生との毎年恒例常神ツアーが入ってしまったので、パーティーの方をキャンセルせざるをえなかった。私にとってはこんな機会は滅多にないし、装幀家の方にはぜひお目文字したかったので、かなり残念な気持ちなのだけど、一方で4年間つきあった若い人たちとの時間もかけがえがないものだから。

そして来月はダライ・ラマの講演(なぜかウチの大学にやってくる)と、祖母の3回忌の法要が重なった。こちらは迷うことなく祖母の方を優先。ま、ダライラマの方はいつかどこかでようつべにUPされることを願う。

展覧会の方はDMがあがってきた。いつも思うことだけど、DMの絵が一番ダメ。でも今さらどうしようもないので、展示する絵に注力中。絵本は校正があがってきたらしい(まだ見ていない)。デザイナーさんが遊んで下さってるので、きっと可愛い本になると思います。

2013/10/8(火)09:01

神無月。今年もあと三月をきってしまった。 そして個展のお知らせ。

また今年もやります。来月中旬(11/15〜20)場所はいつものHBギャラリー(詳細はまた近くなったら。)
今回は我ながら冒険してるつもりです。仕事とは関係のない、たぶん仕事には結びつかない類いの絵を並べます。画材も支持体も初めてのものを使います。どうなることやら。
実はこの方向でやると決めたのは一年前ほど前。本当にいいのかなと迷っていたとき、友達のイラストレーターTさんに言われた一言「個展なんて『やっちゃった感』がある方がいいですよ」に目から鱗が落ちました。あぁ、そうだ。どうせ自分で金出してやる個展、いい子ぶってても仕方ない(だいたい、いつもいい子ぶる方向だって間違うし)。好きなこと、やってみたいことして誰に遠慮があるもんか(←啖呵切ってるつもり。)

現在、鋭意制作中。「あ〜あ。やっちゃったのね〜。」と思いにきてやって下さい。あ、あと個展のテーマとは全く関係ない絵本も売ります。(自費出版本。今、とある方に素敵なデザインをお願い中。)

2013/9/21(土)15:53

一昨日から学校の後期スタート。そんなに忙しくもなかろうとタカをくくって登校したところ、予想外の雑用が連ちゃんで発生、外食して帰宅したら23時過ぎであった。まぁ忙しいと無駄な雑念がわかないのはよいことなのだけれど。あの台風のとき、どうも京都の家の2階の窓が開けっ放しだったようで、積んであった仕事の資料その他の本が一旦濡れて乾いた痕跡あり。そのときはきっと雨が降り込んで大変な状況だったのだろうけど、水分が乾いてしまったあとの波打った本だけ見ると、悲しみの感情も乾いたモンですね。「あら、まぁ…」程度で。そのまま窓閉めて東京に戻ってきました。いろいろと進行中。

2013/9/9(月)21:18

備忘録。先週末にこの春の卒業生Hとご飯。その次の日は友達のMさんとご飯。あとは仕事。

そんななか、2020年東京オリンピックが決定。ほとんど興味なかったのに、決まってしまうとなんとなく、気持ちが後ろから前を向くものですね。7年後、私はどうしてるんだろう。そもそも生きているかもわからないけれど、間違いなくネコは死ぬし、70歳代後半の親もあやしいし、知人のうち幾人かはいなくなっているかもしれない。今まで、緩慢に区切りなくこの日常が続いてゆくと思っていた先に、ぽつんとオリンピックのフラグが立って、ひとつの区切りができた。これから街は変わってゆくことを余儀なくされる、いい意味でも、悪い意味でも。それでも、前向きな変化を含んでいると信じたい。

2013/9/5(木)22:58

九月になりました。

いろいろと思うことあるものの、ここに書く気にならないので、旅日記ばかり更新するわけですが。

旅日記最終。

今回のパリで、卒業生で一つ後輩のKさんに会った。彼女のことは在学中から知っていたものの、ゼミも違うしほとんど話をしたこともなかったのに、今回恩師からの提案もあり、幾人かで夕刻、彼女のアトリエを訪ねることになった。パリの地図の右上あたり、エスニックな人たちが暮らすエリア、地下鉄の駅から徒歩5分くらいのアパートの一階に彼女のアトリエはあった。パリらしい雰囲気のある 暖かい色の電灯に照らされた通路にはオリーブの鉢植え、家の中は彼女の作った絵やオブジェが雑然と並んでいる。彼女は大学を卒業してから間もなく単身パリに渡り、それ以来ずっとアーチストとして暮らしている。在学中どこか破天荒な気質を垣間みせる人であったと記憶していたが、そんなふうになっているとは全く知らなかったので、私は今の彼女にとても興味があった。会ってすぐにこちらが名乗ると私のことも憶えていてくれていて、すぐに共通の知人(複数)の消息話にしばし花が咲いた。「パリに来たころ、言葉は毎晩バーに通ってカウンターの客の会話で覚えました。だからスラング。今はフランス語の学校に通って6年生。」と笑う彼女は学生時代よりも、ずっと柔らかな印象の人になっていた。現地の人と結婚し、もう成人した息子さんもいるのだそう。近所には同じようなアーチストがたくさん住んでいて、毎年幾日かアトリエ開きの日というのがあって、あちこちのアトリエを開放してアート関係のスジの人たちが作品を観たり買ったりするのだとか。ちゃんと食べられてるの?とても失礼な質問だと思いつつも素直な疑問をぶつけてみると、なんとかなってる、と笑う。いろいろ細かい事情もあるけれど、全体として家もちゃんと借りられて、息子も育てて、近くには仲間もいるし、それで絵を描けて暮らせるし、まぁ,幸せだわね、という感じ。学生たちには次の展覧会用の立体作品をi-padでちゃちゃっっと見せてくれた。もし、時間があるなら、この向かいにもう一人日本人のアーチストがいるんだけど、会ってみますか?という彼女の言葉に甘えて、そちらにもお邪魔することにする。ほんとうに彼女の家のすぐ裏のアパートにSさんというアーチストのアトリエ兼住居があり、初対面10名で押しかけたのにも関わらず、嫌な顔ひとつせずに赤ワインまであけてもてなして下さった。大きな作品を壁にたてかけて描くことのできる吹き抜けの大きなアトリエ(30畳近くはある)とキッチン+ダイニング、二階にはアトリエを見下ろすことのできるちょっとした書斎のようなスペース(ここに本棚と机なんかが置いてある)と、ベッドルームが二部屋。アトリエがある時点で、この物件がアーチスト対応のものだということがわかる。アトリエの壁には制作中の作品が何枚もかかり、床にも絵のパーツになるブロックがところせましと並べられている。これでお家賃はいくらかと無粋な質問をしてしまう私。嫌な顔ひとつせず「一月1200」と答えてくれる彼。「やっす!1200円!?」と驚く学生。「ちゃう!ユーロや!」と一斉に突込みをいれる関西人な私たち。

それはさておき、東京でもこんな家を借りようと思えば軽く数十万はするし、そもそもこんな間取りの家自体、そうそうないのではなかろうか。こういうアパートを見てしまうと、アーチストにとってパリという町は今でも暮らしやすい町なのかもしれないな、と単純に思う。少なくとも東京より住環境はよい。Sさんは画廊と契約して、定期的にアートフェアにも参加しいるそう。Sさんにお礼を言って、アトリエをあとにしたあと、彼女も交えて近くの彼女の知り合いのアフリカ料理の店で夕飯にした。おなかがぺこぺこだった私たちはタジン鍋を4つにクスクス料理を四つ、それ以上の何かもとって、むさぼり食う。クスクスはおかわりがいくらでもできるのだと知った男の子が3回もおかわりして、最後はクスクスの鍋から直にスープを飲み干し、その姿がアホみたいだったので写真におさめる。店の人も出てきて笑っていた。店の人に軽やかなフランス語で通訳してくれる彼女。大学時代の彼女を思い出すと不思議な気もするが、卒業して30年近く、最初はバーのカウンターにしがみついて言葉を覚えた彼女の来し方行く末を思うと、今までなんとかなったのだから、これからだってなんとかなるんだろうな、と思った。帰りに真っ黒な人たちばかりのたむろする真夜中の道を二人で歩きながら、日本には帰らないの?と聞いたような気がするが、そのときの彼女の言葉を今覚えていない。たぶん、意外でもなんでもない、やっぱりね、というような返事だったんだと思う。先のことはわからない、どうなるかはわかんない、そういうふうな返事だったんだと思う。今回、あんなふうに暮らしてる先輩の存在を学生たちがどう感じたのかは知らないが、これから行く道のどこかで、彼ら彼女らがふとKさんのことを思い出すことがあったらいいなと思いつつ、メトロへの階段で彼女に手を振った。

2013/8/30(金)18:57

新しい画材でいろいろ試行錯誤。楽しい。そして八月も明日でおわり。なんという早さ。

旅日記続き。リール現代美術館。

パリからTGVで1時間、ベルギーとの国境付近の町リールにある現代美術館に行くことになったのは、K先生の事前情報でここでスウェーデンのアーチスト、ヨックムの展覧会があると教えてもらったから。TGVのあと地下鉄とバスを乗り継ぐという、とても不便なアクセスに教員4名プラス学生4人で行ってきた。駅前のポールでサンドイッチを仕入れてバスに乗り、20分ほどで美術館に到着。

この美術館については事前に何も仕入れてこなかったが、K先生に教えてもらったところによると、企画展がヨックムで、パーマネントが近代〜現代、しかもアールブリュット系の作品を多数所蔵しているところらしい。まずヨックムを見たのだが、これがとてもおもしろかった。絵本を持っているので彼の画風はなんとなくは知っていたけれど、実際の作品はとても大きくて、抑え気味の色にコラージュを多様した画面構成はとてもおもしろかった。定規をあてて描いたような(実際そうしてるんだろうけど)設計図のような奥行きのない建築群の線と有機的な人間の線が同居している画面。絵がいいというよりセンスの塊のようで、このバランス感覚はなんなのだろうと思った。定規を使って線を引く行為と有機的な線を引く行為は、脳の使い方が違うような気がするのだけれど、そこをこの人はセンスの良さ、という綱を頼りに軽く飛び越えている。どの作品も見上げるくらい大きいのに、破綻なく気持ちよく画面におさまってる。奔放が制御されている感じがとてもスウェーデンっぽい、というのも変だけど、ラテンの人にはああいう画面は作れないんじゃないだろうか、とか。コラージュという技法のなせる技なのかな。

パーマネントの方はアールブリュットがやはりおもしろかった。が、ここも作品数が多すぎて最後まで見きれなかった。有名どころではヘンリー・ダーガーのものも数点あった。初めて見たけど、思っていたよりもファンシーな印象。あとはウィーンのグギングにあったオズワルトさんのポストカードも数点。アールブリュットの作品を見ていつも思うのだけれど、絵の魅力ってのは何なのだろう。巧いとか美しいとかの言葉では収まらない感じ。単に「いいねー」としか言いようのない、惹き付ける力。それを人種年齢を超えて私たちが共有できるって何なのだ?

美術館のベンチでポールボキューズで買ってきたチキンのサンドイッチを食べ、再びバスに乗って駅前まで戻り、TGVの時間まで駅前のビストロで夕飯を食べた。ビアホールのような店で油っこいメニューしかなく、サラダだけを取って揚げ物の盛り合わせを注文した学生からフライドポテトをわけてもらって食べた。続く。

2013/8/26(月)14:24

先週末は軽井沢へ避暑(なんて優雅なひびき。)いえ、こじんまりとしたペンション宿泊でしたが。

旧軽井沢のあたりを散策し、きれいに苔むした広大なお庭の瀟洒な別荘の群れに驚きつつ、旧三笠ホテルや聖パウロ教会等も見学し、明治の生活の西洋化についていろいろと思うところあり。日本の教会の佇まいが、ヨーロッパで見たものとお寺の中間にあるように見え、これは以前シベリアで見た木造のロシア正教会にも通じるし、そもそも仏教だって時代とともにいろいろと変遷してきてはいるのだけれど、いつか日本の教会を巡る旅なんてのもしたいな、なんていうことを考えてみたり。これについては思うところがいろいろあるものの、長くなるのでいずれまた。それにしても三笠ホテルの浴室ばかりがずらりと並んだ「浴室棟」や「厨房」を文化的価値がないと決めて取り壊してしまった移築当時の文化庁に怒りを覚えた。 ロビーと客室だけがホテルの文化ではなかろうに。

前の日は近くのお友達の別荘に寄せていただく。5月に掛川で集ったメンバー+幾人か。近くのお寺を散策し、池のわき水に手を入れたり、鐘をついたり。もう高くなった秋の空に彩雲を見つける。きれいだったな。夜は近くのレストランで食事して。子どもたちと初めましての人がいて、それぞれに言葉をやりとりすることができて、とてもよい時間だった。

もっとしっかりしなくては。もっと自分のことに自信を持とう。もっと手を動かそう。もっと勉強しよう。もっと具体的に。もっと。

2013/8/22(木)17:02

昨日は学校。iフォーラムの相談日だったのに、来た人はわずか。大丈夫なのか…。

旅日記。オペラ座へオペラを見にゆく。

パリ9回目(!)にして、初めてオペラを見に行く気になったのは、煎じ詰めれば「美術館以外のカルチャー的ナニカ」を仕入れたいと思ったからで、今まで何度もパリに行き、そのうち何度かは1週間近く滞在していたにも関わらず、オペラ座に足が向かなかったのが自分でも不思議なのだが(その理由も判然としない。ただチケットを取るのが難しそうだと思い込んでいたからか)今回は旅の前、ネットでサイトをチェックして演目を決め、カード決済したのち送られてきたURLにアクセスして自宅のプリンタでチケットをプリントアウトして持って行った。会場に入るまで、ほんとうにこんなぺらぺらの紙で入れてくれるのか不安だったが、すんなり入場。あのシャガールの天井画が真上に見える、正面やや左のとてもよい席に落ち着く。深紅のビロード張りの椅子、背中の席番号を示す金属プレートの落ち着いた真鍮色も美しい。演目はロッシーニの「チェネレントラ」演出はポネル。偉そうに書いたが、この固有名詞のうち私はロッシーニ以外、知らない。(ロッシーニも音楽の授業のときに見たヘンな髪型の作曲家、程度の認識。)知人に「ポネルならいいよ」と教えてもらい「チェネレントラ」が「シンデレラ」とも教えてもらい、「ポネルは知らないけどシンデレラだったらストーリーはわかる!」と短絡し、それだけを頼りにやってきたのだった。(歌舞伎なんかもそうだが、演劇や音楽に関して、私はあまり事前に勉強しない。事後も勉強しない。その時々で楽しそう,おもしろそうだと思うものに都度反応する。いいのか、わるいのか。)

おそらく前後左右は観光客、会場全体で見ても、かなりの人が観光客のようだった。ウィーンのオペラ座(こちらは過去に3度見たことがある)と比べ、雰囲気があきらかにカジュアルだ。観客の服装(ウィーンでは普通に地元オバサンが総スパンコールのイブニングドレスとか着てる)や会場全体の色調の明るさ(シャガールの軽やかな色調の天井画によるところが大きいと思う)等からの印象からか、オペラ文化の根付き方が「貴族」対象というよりも「市民」対象っぽい。ウィーンが京都で和服/紋付袴で見る歌舞伎なら、パリは東京でちょっとおしゃれなワンピースで見る歌舞伎、みたいな。チェネレントラの舞台はとても美しかった。美しい、と簡単にまとめたが、それは「洒落た」というニュアンスを含む。デパ地下に行って、おしゃれな洋菓子屋(ラデュレとか)の内装を見たときや、伊勢丹のクリスマスのショーウィンドーを見た時に感じる「おっしゃれー」な感覚。重厚さやあたたかみ、ではなく、どこかポップで軽やかな割り切り感のある演出。ほとんどの舞台装置が前世紀末の新聞広告のようなイラストを拡大コピーしたモノクロ平面の書割りレイヤー構成でできていて(←すみません、この説明、全然わからないと思います)その平面イラストにあいた窓からポップなドレスを纏った歌い手が出たり引っ込んだりする。ツェッペリンで言う「フィジカルグラフィティ」のレコジャケ状態(わからない方すみません。)立体物はほとんど人物だけで、舞台装置はモノクロで平面イラスト。それなのにおしゃれ。いま。そんでもって、どこか知的。

それでも、寝た。私は寝た。早朝ニースからの移動が祟ったのもあるが、何が一番不可解だったか、これを書いている今、ふいに思い出して立腹しているのだが、肝心の「王子様」が全然かっこ良くなかったのだ。このチェネレントラはシンデレラと違い、継母ではなく父親、魔法使いが魔女ではなく、男という設定だ。舞台上に若い男性が二人いる。そのうち、どちらかが魔法使いでどちらかが王子様なのだが、私は背の高い、顔の輪郭のしゅっとした方が王子様だとずーっと信じて見ていた。途中、背の低い、顔の四角い、やや小太りの方が王子様だということに気付く。「それはなかろう」とそれまで言葉がわからないなりに頭の中でシンデレラのストーリーをスキャンしていた私ポカンとしてしまった。そういう観点で見てはならない、という暗黙の了解がオペラ鑑賞にはきっとあるのだろう。でもねぇ。

見終わったあとホテルに戻ったのは23時過ぎだったかと思う。独り部屋なので、昼間に買っておいた焼きそばを食べ、広いバスタブにつかり、あとは泥のように眠った。

2013/8/18(日)23:55

昨日は高校の同窓会に行ってきた。卒後30年。前回の同窓会からは20年。最初は誰が誰だかわからなかった。顔を見て、名札を見て、記憶のパズルのピースが合うと「あぁ!」と合点することを繰り返しながら、あっという間の3時間。中学時代も一緒のバレー部だったチアキちゃんに「未だにサーブが入らない夢見るの」と語っているそこのこと自体が、まるで夢のなかの出来事のようだった。会わなかった30年間を光速で飛び越え、私たちはそのまま中学生に戻る。たぶん、この先、お互いの都合がつかなければ二度と会うこともないのかもしれない。たぶん、昨日名乗り合ったものの時間が足りず、ロクな会話もでなかったほとんどの人たちも。でも、やっぱり行ってよかった。いろんな同年代の「いま」を垣間みて、そっちにあるもの(ないもの)、こっちにあるもの(ないもの)、それぞれの輪郭を確認し合って、少し切ない気持ちでいまを笑う。同窓会ってのは30年後くらいにやって、あとは10年後ずつくらいの頻度でやるのがいいのかもしれない。いつまでも〇〇ちゃん、〇〇くん、と呼び合える彼ら彼女らの定点観測は、それくらいの幅があってちょうどいいような気がする。中身は変わらないけれど外身は劇的に変わる。劇的に劣化する姿形を乗り越えて、全然変わらない中身を確認し合あう醍醐味。遠い昔、一緒の学校に通っていたという共通幻想だけで繋がり続ける不思議なご縁。「次は10年後やな。もう私、おらんかもしれんな。」「私もや」と幹事のイソコさんと笑い合い、またねと手を振る。次があることを無根拠に信じつつ、京橋にて。

2013/8/15(木)22:04

猛暑続き。最近、気持ちのどこかが深く沈殿していて、これには心当たりがあるものの、言葉にすると定着してしまうのでできずにいる。誰かに話してもどうなるものでもないようなとき、私というヒトは黙り込んでしまうようです。友人に電話をかけてねぇ聞いて、と昔は言えたような気もするけれど、最近はどこかでそういうのをためらってしまう。それぞれに大変なのだから、共有できない荷物は一人で抱えるほかない。

そうしてお盆。実家には明日帰ります。土曜日に高校時代の同窓会が20年ぶりにある。ヤンキーばっかりの京都府立八幡高校10期生。幹事の子から電話があったとき、中学時代にとても親しかった友達が今年の春に他界してしまったと聞く。癌だったそうだ。その他記憶にあるクラスメイトの二人の名前もあがった。こちらは原因はわからないらしいけれど。「そういう歳やね。生きてるだけでありがたいわ」と言う彼女。そうかもしんない。48歳の同窓会。みんな荷物を持ち寄って、少しずつでも軽くなれますように。

2013/8/7(水)22:00

夏休み。先月末に3年生たちとの飲み会があったり、江戸川区の花火大会に行ったり。

旅日記を書こうと思いつつ、頓挫。

2013/8/2(金)18:52

先週末、友達と二人で有馬温泉に行ってきた。

「ありまひょうえのこうようかくへ〜♪」のあの有馬。尼崎で子ども時代を過ごしたくせに、今まで行ったことがなかった有馬。どの交通機関を使えばいいのかもわからなかったが、とにかく三宮に出ればなんとかなるんだろうと思って適当に三宮に集合。直行バス30分(!)で到着、山の斜面に立つ老舗旅館の和洋室で荷物をほどき、のんべんだらりと過ごしてきました。それぞれにそれぞれの紆余曲折を報告し合い、ぐちぐちぐち…。美味しい料理(料理自慢のお宿で、ほぉんとうに美味しかった!)と温泉。この二つがあれば女同士は中年から老年〜後期高齢者になっても足腰立つ限り、幸せに過ごしてゆけるのかもしれないな。 うん。

旅日記続き。

次の朝TGVに乗るためニース駅へ。最前列の車両の前には、ほとんど倍の車両が追加連結されていた。やはり乗客が多いのだ。私たちの車両は先頭に近かったため、ホームを延々と歩く。列車は7時過ぎに無事パリに向けて出発。地中海が朝日で黄金色に輝いている。私は食欲もなくひたすら眠り続ける。しばらくして目覚めると、車窓にちらほらと雪景色が見えてきた。でも列車を止めるほどの積雪には見えなかった。福井県出身の学生だったか、これくらいの雪で列車止まるなんて、フランス人は雪に弱いのね、というようなことを言った。

パリのオーステリッツ駅に着いたのは13時過ぎだったかと思う。地下鉄を2回乗り換え、サンジェルマン通りのホテルへ向かう。乗換駅で、肌の浅黒い中学生から小学生くらいの少女たちがエスカレーターで私の後ろにぴったりとついてきて、なんだか怪しいなと思い、たすきがけにしていた鞄を確認しようとしたとき、その鞄から私の財布を抜き取ろうとする細い小さな手を見つけた。その手から財布を取り上げ、目が合った14歳くらいの少女に「なにしてんの?」と関西弁で問いかけると、苦笑いした彼女は仲間に声をかけ、エスカレーターを降りたところで逃げていった。「いまスリに遭いかけたよ、気をつけてね」前を行く学生たちに声をかける。

ホテルに着いて部屋割りを済ませてからベッドに倒れ込む。少し眠ろうと思ったものの、あまり眠れなかったので、ひとり中華を食べにゆくことにする。毎年パリに着いた日の夜にみんなで食べにゆくことにしている美味しい中華の店がカルチェ・ラタンにあり、実はこの日の夜一人でオペラを見にゆくつもりでいた私は、先にここのラーメンを食べておこうと思ったのだった。日陰に残る残雪と凍った路面に足をとられつつ、サンジェルマン通りをとぼとぼと歩くこと約20分。店先に焼かれた鴨がぶら下がってるその店に到着。中途半端な時間だったので、すぐに1階の奥の席に通してもらえた。鴨とブロッコリ入りのクリスピー麺の焼きそばか鴨ラーメンかで激しく悩んだ末、鴨ラーメンとジャスミン茶を注文。私より少し年配の全く愛想のない黒いおかっぱ頭の背の高い女性が無言でお茶をテーブルに運んできてくれた。まわりを見渡すとどの席も地元民らしい一人客が多く、ぼそぼそとした感じで箸を動かしながら何やらを食べている。ラーメンが来たあと、れんげが見当たらないのでおかっぱ女性にリクエストすると、丼の向こう側にかくれていたれんげを指差しながら「それ。」と真顔で言われた。「ごめんなさい」という気持ちになる。ぼそぼそと食べる。前に来たときよりも麺が硬めで汁がぬるい。なんだこれ、と思いつつも、ずっと食べたかった中華のダシの味はやはりそれなりには美味しかった。ぶつ切りにされた鴨肉も手で持って骨をしゃぶって食べる。ごちそうさまのあと、チェックをしてもらうとおかっぱ女性に声をかけると随分待たされたあとでレシートをぺらりと持ってきた。金額を確認し、お金をテーブルにおいて席を立つ。出口までの通路ですれ違ったおかっぱは「メルシー、マダーム」とやっぱり真顔で言った。

その中華屋の隣に別の中華の安い総菜屋がある。ここで今夜のオペラ後の晩ご飯を仕込むことにする。太くて白いモヤシがピカピカのオイスター味の焼きそばを200グラム量ってもらう。「あたためる?」と人なつこい感じの中国人女性店員に聞かれたのを断って、フォークを入れてもらう。その紙袋をかかえ、途中のスーパーで水を買ってホテルに戻りオペラまで眠った。続く。

2013/7/25(木)09:50

旅日記続き。ニース。

駅に到着し、電光掲示板に乗るべき列車の番号を探していると国鉄職員のおじさんが話しかけてきた。「君たちのチケットを見せて」不穏な気持ちでチケット見せると難しそうな顔でそのチケットを見ていたおじさんが言った言葉は「No Train」。「は?」目がテンになった私たちに彼が説明する。「パリは大雪。だからこの列車はキャンセルされた。」まわりを見ると駅には彼と同じような蛍光オレンジのベストを制服の上から着た臨時の国鉄職員が何人もいて、呆然とする乗客にあちこちで説明している。別の女性職員が話しかける。「明日の朝、代わりのTGVを走らせるから、そのチケットをあげる。何人?」「17人。」とこたえつつ頭がこの緊急事態についていけない。〜明日の朝TGVに乗れば昼過ぎにはパリには入れるだろう。しかし寒波に襲われているというパリの雪は明日には本当に止むのか、明日もキャンセルされるのではないか?だいたい今夜、私たちはどこに泊まればいいのだ?駅でこのまま朝まで待つのか?そもそも17人分のホテルなんて今こんな時間から取れるのか?どうするどうするどうする?〜「0ユーロ」と打ち込まれたTGVチケットを17枚受け取りながら、頭のなかはぐるぐると空回りする。

結局、相談した結果、昼間チェックアウトしたホテルに交渉してみることになった。無駄足になってはいけないので、K先生とZ先生だけホテルに戻る。N先生と私は駅で学生たちと荷物の番をしながら待機。待っている間、心配そうな顔だった学生たちは徐々に緊張がほどけたのか、その日の昼にお土産に買った蛍光色のサングラスをかけてあいっこして遊んでいる。この事態を記録しておこうと電光掲示板にカメラを向ける子もいる。私もカメラを出してまわりの様子を撮ってみた。私たちが写真を撮っていると、さっきの国鉄職員のオジさんがピースサインを出してこっちを向いてニッコリとほほ笑んでくれた。一緒にいた女性職員たち3人も並んでピースして記念撮影。和やかなムードになる。何だか暢気だ。でもこうなったら腹をくくるしかない。

しばらくして戻ってきた2先生たちの表情は明るかった。一部屋4千円くらいの4人部屋が4つとシングルが一部屋確保できたらしい。あぁ、よかった。男の子が一人先生の部屋に混ざれば、あとの部屋割りはうまくいきそうだ。シングルは私のために取ってくれた。感謝。来た道を重たいスーツケースをゴロゴロと転がして再びホテルに戻りながら「ホテルで宴会しよか」Z先生の言葉に学生たちがはしゃぐ。ホテル横のドアの脇では、ついさっき私たちを無言で見送ってくれた(ように見えた)従業員の、少し肌の浅黒い男性が、煙草を吸いながらそのままのポーズでニヤリと笑って迎えてくれた。最上階の屋根裏の小さなシングル部屋に荷物を放り込み、シャワーを浴びてからほかの先生の部屋に集合する。持ち寄った夜行用にと買い込んだ食料や飲み物を広げ、リモアのスーツケースを椅子代わりにして宴会が始まる。別の部屋では女子たちが集い、二つの部屋を行き来しながら、結局3時頃まで宴会は続いた。

ふと、私たちが学生だった頃にT御大が連れてって下さったヨーロッパ旅行でも、夜ごと先生の部屋に集ったことを思い出す。あのときはまだ東西冷戦の時代で、ブタペストに行くためのビザを取るために行かなければならなかったウィーンの役所の「東側」の異質な雰囲気を体験したばかりの私たちは、その夜のホテルの部屋で先生がワインを飲みながら話してくれた資本主義と共産主義の違い等、それまで学校では教えてもらわなかったヨーロッパの歴史を現場の臨場感とともに聞かせてもらった。私たちが知っている世界が全てではないこと、共産圏の人たちの暮らし(通貨価値が日本の十分の一なのに、何も買いたいものがないデパート。埃っぽい空気。赤い服を着る人が多いこと。町のあちこちにある、やたらと拳を振り上げたような労働者の巨大な彫像。そしてたいていの町にもあるユダヤ人墓地の存在。ブタペストでは学生の身分で星のついているホテルに泊まれる私たち、その学生のためにスメタナの曲をレストランで演奏してくれたホテルの雇われバイオリン芸人、そして彼が私たちの食べ残しをこっそり食べている姿…。)

翻っていまの時代、学生たちに私たちがヨーロッパまで来て伝えられることって何だろう、と毎回この旅に来るたび思う。何かが大きく変わろうとしてる時代の空気は感じるものの、一体どこに学生たちを連れて行けばいいのか。(私よりも4歳年下のK先生は、学生時代、同じT先生にソ連崩壊直後のモスクワに連れていってもらったという。いま、同じようなことを体験するとしたら中国やアフリカか。)結局「写真ではなく本物の作品を見るということ」「日本という国を外側から眺める経験」くらいしか思いつかない。宴会で美術館で見た作品や学生のバカで可愛い話で盛り上がりながら、それでもいくつかのトラブルがありながらもそれに大人が対処しながら旅をする姿を見せることが、少しでも彼らの先々に役にたてればと願う(続く。)

2013/7/23(火)13:57

学校の方は先週で前期が終わり、今週からは夏休み。

2013/7/22(月)20:00

旅日記続き。

今回のニースで是非書いておきたいところがある。それはニース現代美術館。ここはイヴ・クライン(ニース出身)のコレクションがあることで有名な美術館だが、私があまりイヴ・クラインに興味を持てないこともあり、前回も今回も行くつもりは全くなかった。だが夜行列車までの時間つぶしのつもりで行ってみたこの美術館が、思いのほか充実していたので書いてみる。

四日目の昼前、ホテルをチェックアウトしてからぽかんと時間が空いた。美術館はもうお腹いっぱいだったし、夕方近くのモノプリ(スーパー)でパリ行きの夜行のための買い出しさえすればあとは何の予定もない。フロントに荷物を預け、ギリギリまで観光する学生たちを見送ったあと、ロビーでこのまま夕方まで寝ててもいいかとぼんやり思っていた。ひとつだけ心残りだったのが、学生に合わせてずっとピッツェリアばかり(しかも最後の夜はインド料理屋でカレー!)だったため、一度も南仏らしい美味しい魚を食べられなかったことで、せっかく時間もあるし、ロビーにいた同僚に前回一緒に行った旧市街のレストランに行ってランチにしないかと提案してみた。快く同意してくれたので大人4人でゆるゆると出かけた。

前日も、前々日も来た旧市街の噴水のある広場から少し坂を上ったところにあるそのレストランは、前回来たとき、ハゲなのにおしゃれなイケメンとヒゲの濃い笑顔が可愛いイケメン二人が給仕をしてくれた店である。もちろん味もとても美味しかった。今回そのレストランは新しくきれいになり、広さが倍ほどになっていて、わたしたちは奥の真っ白い壁のテーブル席に案内された。ヒゲ&ハゲのイケメン二人もちゃんといたが、私たちの席の担当は背が低くて線の細い、しかし髭のそりあとがくっきりと濃い(そしてやっぱりイケメンの)小柄な人だった。きっとオーナーの趣味なんだね、と同僚と話す。魚の名前がよくわからなかったが「レモンのソース添え」の言葉に惹かれてランチメニューの中からひとつを選ぶ。N先生は適当にいちばん高そうなものを選ぶ。私にやってきたのはカジキマグロのソテーだった。N先生に来たのは赤い皮の白身の魚をカリッとソテーしてタプナードを添えたものだった。茹でたインゲンやフライドポテト等、たっぷりの副菜と一緒に、みんなでお皿をぐるぐると回しっこする。N先生のが一番美味しかった。

食べ終えてチェックをしてもらっているとき、イケメンハゲの方が通りかかったので、2年前にも来たよとZ先生が話しかけると彼は客商売らしいにこやかな笑顔になった。帰りがけ、私が地下のトイレを借りたあとでみんなを追いかけてドアに急ぐと、ドアの前でヒゲとハゲと立ち話をしていたZ先生が「引き止めときましたよ」と言ってヒゲ&ハゲに私が挟まれた3ショットの写真を撮ってくれた。

現代美術館の話だった。

レストランを出たあと、まだ集合時間には時間があったので、そのまますぐ近くのニース現代美術館に行ってみようという流れになった。通りからの階段をてくてくと上り、美術館の前の広場が見えたところで視界の真ん中にニキ・ド・サンファルの銀色に輝く高さ3メートルほどの怪獣がどーんと現れた。全身、鏡でできた銀色を纏い、開いた口から見える歯は金色、尻尾にあいた穴のフチは赤く、黒くて円錐形の短い手(のようなもの)を左右につっぱっている。ニースの空の色を反射してキラキラと光るその姿は今まで見た彼女の作品なかで一番好きかもしれない、と思った。広場には彼女のほかにも、いくつかの作家の彫刻があった。美術館に入る。お金を払おうとすると入り口にいた女性が「フリーよ」と言った。無料なのだ。

移動手段は主に階段で、その手すりは青く光っていた。ははん、これはイヴ・クラインの作品があるからだなと納得し展示室に入る。最初の部屋(だったと思う)に、あの何でも梱包しちゃうクリストの平面作品がいくつかあった。横たわる女性を鉛筆で軽くデッサンしたものを、上からビニールのような素材で平面上で梱包して細く茶色い糸で縛ってある。そのほかパリのポンヌフやシャンゼリゼ通りの並木やオーストラリアの海岸を梱包したスケッチもある。いずれも実際のプロジェクトで梱包された橋や並木や海岸の岩山の部分は画面の上でもちきっちりと布やビニールで包まれ、繊細な密度で絡みあった細い糸でしばられていた。これがプロジェクトのためのラフなのか、それともこれ自身が作品のつもりで作られたものなのかはわからなかったが、写真のコラージュや文字の走り書き等、巨大な梱包作品からは全く窺い知れなかった彼の繊細な色感と構成センスに驚いた。(私のなかで、クリストの位置づけが「なんでも梱包しちゃうおじさん」から「芸術家」に変わった。)続く部屋にはイヴ・クラインの作品やティンゲリーのもある。イヴ・クラインの作品の吸い込まれるようなマットな青は写真に撮ると全然違う色になってしまった。そしてニキ・ド・サンファル。ニキの作品の多くが見たことのない毛糸や石膏を使った素材感のあるものが多く、なかなか興味深かった。こんなに優しい色を使う人だったとは。ティンゲリーとニキのモノクロ写真もあった。美しいニキ。続く階にはアルマンと再びクリスト(ここのもよかった)ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、ウォーホールやキース・ヘリングもあった。私の知らない(たぶん有名な)近代・現代の美術作家はほとんど網羅されているのではないかと思うくらい、何階にもわたり延々と展示は続く。最後には美術館の広さと充実ぶりを恨めしく思うほどだった。もういい、早く終わってほしい。

クタクタになって最後に屋上の回廊まで出ると、ニースの風景が一望できた。小学生くらいの女の子を連れた親子が記念写真を撮っていて、ちょうど通りかかった私にシャッターを切ってくれるように頼んできた。撮影後カメラを返しながらどこから来たのかと訊ねられたので日本と答えると、この子のピアノの先生も日本人だよ、と旦那さんが言った。ご自身も高校で先生をしているらしい。女の子が指を折りながら「イチ、ニィ、サン、シ、…」と日本語で数を数え上げてくれた。すごーい、と笑う。手を振って別れる。屋上ではZ先生とも再会する。彼も作品の多さに高揚しているようだった。一階に降りてショップを覗く。噂のイブ・クラインの青を再現したというインターナショナル・クタイン・ブルーの絵具は見つけられなかったが、無料でこれだけのコレクションを見られた充実感でじゅうぶん満足だった。公共交通機関がほとんど1ユーロで賄えてしまったこともあり(実際のところは知らないが、私たちが使ったバスはどこへどれだけ乗っても、最初に払った1ユーロだった。)とニースの太っ腹加減に呆れてしまった。

美術館を出たところでK先生とN先生が待ってくれていた。帰り道にあるモノプリに寄って、その日の夜行の食事をめいめい買い込む。私はイカとジャガイモをソテーしたお惣菜とフランスパンと小さなオレンジをいくつか買った。ホテルに戻って荷物を詰め替え列車のコンパートメントの部屋割りも済ませ、全員集合したところで駅に向かって移動する。夜行列車に乗る思うともう大人なのにテンションが上がる。乗車時間は12時間。みんなでご飯を食べ揺られながら眠っていれば翌朝にはパリに着く。ここまでアムスからバルセロナの飛行機がストで飛ばなかったり、ニースからのバスを間違えたりと交通機関のトラブルが多かったが、ここまでくればあと少し。あぁよかったと思った矢先、私たちを待ち構えていたのは、駅にいた国鉄職員の信じられない言葉だった。(続く)

2013/7/14(日)16:44

ニース続き。

ニースに来た理由は3つある。ピカソとコクトーとマチスだ。3人ともニース近郊の小さな町に礼拝堂と美術館があり、ニースを拠点にそれぞれ3方向に1時間ほどの距離にあるため、これだけで3日つぶれる。一日目はヴァロリスのピカソの戦争と平和の礼拝堂と陶器美術館、そしてそこから海方向へ移動したアンティーブにあるピカソミュージアム。(前回来たときはバスの乗り場を間違えて時間切れになってしまい行けなかった。)二日目はマントンにあるコクトーの美術館(新、旧)と、そこからニース寄りの海沿いの漁村ヴィル・フランス・シュルメールにあるコクトーのサン・ピエール礼拝堂。そして三日目はニースからバスで1時間のヴァンスにあるマチスのロザリオ礼拝堂。それぞれについてはここでは書かない(ごめんなさい)が、3日間、それぞれの画家をめぐる小旅行をしては夕方ニースに戻り、ホテルからぶらぶら歩いて30分ほどの旧市街のピッツェリアでピザを食べ(ニースで学生が食べられるような安いレストランといえばピッツェリアくらいだ)、そして夜はうらぶれた安ホテルのバスタブのない部屋でシャワーを浴び、ロビーで学生たちとソファに並んでネットを繋ぐ日々は、なかなか楽しいものだった。

アンティーブのピカソミュージアムについて書く。アンティーブの駅からひたすら海方向へ歩いた先にあるお城のような建物は、実際に17世紀の城砦だったものを市がピカソにアトリエとして貸したもので、彼はここで1946年9月半ばから11月半ばまでの2月間暮らし制作し、そのときの作品を元にこの美術館が整備されたらしい。今までヨーロッパのあちこちの美術館でピカソを見てきたが、ここの作品が今まで見た作品のなかで、いちばん軽やかで肩の力が抜けたものだったように思う。特に光の溢れる一番大きな展示室にあった一連の作品は、どれもが青と緑を基調とした淡い色調にシンプルで自由な造形が踊り、ピカソの絵に向かい合ってるのだという(他の美術展で感じるある種の)緊張感をほとんど感じないくらい(いい意味で)脱力していた。それぞれの作品が作品として屹立しておらず、連作のような勢いであっという間に描いてしまったようにさえ見える。「え、ここで止めちゃっていいのか?」と見てる側も脱力する。普通の人ならノートの切れ端にちゃちゃっと描く落書き程度の密度の線画がそのまま、大きなカンバス(か、板)にわざわざバックの色を塗り描いてある。カンバスを準備したり、バックの色を塗る手間を考えると、この最後の線画の部分にもうちょっと緊張があってもいいようなものだが、それを感じない、力の入れ方(入れなさ)。お城を貸してもらって、好きに使っていいよ、と言われて、こんなにも脱力した作品をポコポコ作ってしまえるピカソっという人はやっぱり常人ではない。最初の10日間くらいだけ制作して、あとはずっと昼寝してたんじゃないか(←想像)。

小さな展示室にはデッサンや小さめの作品があった。その中で一番気に入ったのがレモンの絵で、一番記憶に残ったのがスイカの絵だった。スイカの絵。これがけっこうインパクトがあるスイカで、くし形(だと思う)に切られた赤いスイカと他の静物(憶えていない)が机の上に配置されているのだが、記憶にあるのはスイカの赤だけ。美術館を出たあとで学生とどの作品がよかったかを話すのに「あのスイカの絵があった部屋の向かいの壁の…」というと「あぁ」と思い出せるくらい印象的なスイカだった。売店ではあまり種類の多くないポストカードの中から、ヒラメの絵とスイカのカードを買う。わたしが一番好きなレモンの絵のはなかった。ふざけたくらいシンプルなリポリン(犬だと思う)を木炭でへらへらと描いた線画のも買う。中庭を出たテラスは南仏の初春の光に溢れ、美しいターコイズ色の地中海が前方に広がっていた。こんな家で老後、犬や猫たちと一緒に静かに絵を描く暮らしができたなら、どんなに幸せだろうと想像する。(逆にこんな家を終の住処にすることなく、後にしたピカソの心中にも興味がわく。還暦をとうに過ぎた彼はなぜここを出ようと思ったのか。単に契約上のことだったのかもしれないけれど)

テラスででみんなで記念撮影をする。夕刻、城を出てしばらく歩いた先のカフェで同僚たちとお茶にする。近くには移動メリーゴーランドが回る広場があり、家族連れで賑わっていた。カフェを出てしばらく歩いたところにあった缶詰だけを売る店の店内のディスプレイがとてもきれいで、食べ物好きなZ先生としばし外から見とれる。日本でもよく売られているオイルサーディンの、あの長方形の平べったい缶の形は同じなのに、色は黄色やオリーブグリーンやオレンジ等、様々なものが積み上げられていて、オイルサーディンだけでこんなに種類があるのかとびっくりした。先に行ってしまった同僚たちを追いかけながら、Z先生が世界一美味しい鰯が水揚げされるという南スペインの港の話をしてくれたが、それがどこのことなのか、今となっては思い出せない。(続く)

2013/7/14(日)00:05

連日の猛暑日。どんどん世捨て人になってる感。

旅日記続き。

ニース。二年前に続き二度目のニースは、空港からのバスを間違えたところから始まった。バルセロナから着いたイージージェットがニースの空港に着いたのは夕方。そのままバスターミナルでセントラル駅方面へ行くバスに乗り、しばらく行くと海岸沿いの道に出た。夕暮れのニースの海岸通りにはリッチそうなホテルが並び、カジノのネオンもキラキラしている。旅の疲れを忘れるくらい全員のテンションがにわかに上がる。駅方面へバスが左折し、しばらく行ったところで前回見覚えのある広場に出た。そろそろ駅かなと思っていると、そのままバスは直進し、どんどん人気のない狭い道に入り込んでゆく。

これはおかしい。訝しむものの、過ぎ去ってゆくバス停の名前も場所もよくわからないまま、更にバスは進み、最終的に到着したのはセントラル駅でもなんでもない、小さな暗いひなびた駅だった。ここはどこだ?そのとき私たちには「地球の歩き方〜南仏編」に小さく掲載されているニースのざっくりとした地図しかなかった。当然、ここがどこか、なんてそこには載っていない。下ろされた駅前はバスターミナルになっていて、いくつかのバス停があるものの、バスはほとんど停まっていない。バスの路線図を見てもよくわからなかったので、駅に向かう。駅名を見るとニースからひとつだけ東の駅であることがわかった。ではここから列車に乗ればいい。そう思って時刻表を見ると数分後に来るのがある。あぁ、よかった、と窓口で切符を買おうとすると、今日のダイヤは変更になっていて、あなたたちが乗りたい列車はあと1時間は来ないと言われる。そんな。

たった一駅である。叡山電車で例えるならたぶん出町柳から茶山くらいの距離である(わからない人ごめんなさい。)しかしそこをスーツケース持って夜道を移動する気にはならなかった。バス停に戻る。路線図を睨みつけていた同僚がセントラル駅付近を通るバスの路線図を見つけてくれた。番号を確かめるとしばらく待つと来るらしい。ほっと胸をなでおろし、やって来たバスに乗る。ニースのありがたいところは、公共交通機関の料金が1時間以内であれば何度乗り換えようが最初に払った1ユーロで済むことだ。空港で買った切符を運転手に見せて「ニース、太っ腹〜」などと再び元気が出てきた学生たちを横目に、今度のバスは途中で降りなければならないので相変わらず眉間に縦ジワを寄せて路線図を睨みつけていた私に地元のオジサンが話しかけてきた。どこから来たのかと言うので日本,と答える。近くにいたおばさんが私が肩から斜めがけしていたフライターグのデクスター(白地に緑の文字で「O」(オー)が大きく入ってる)を指差し「フライターグだわ」と言ったので「そう。私のイニシャルがOだからOなんです。」と答えると、さっきのオジサンが「フライターグ?何だそれは」と言うのでおばさんが「メイド・イン・スイスのバッグよ。」と説明する。オジサン理解したような、よくわからないような顔をする。そこで降りるべきバス停に到着したので慌ててバスを降りる。オジサンとオバサンも降りたので、ついでにセントラル駅の方向を訊いてみたら「この道をまーーーっすぐに行け」と言われる。確かに大きな道の角に立っていて、しかし、そのどこにもセントラル駅の灯りは見えない。再び深い不安に包まれる。実はここからの道中のことをあまり憶えていない。重いスーツケースをゴロゴロ転がし、坂道を上がったり、線路の上を通る高架を歩いて、ようやくホテルに辿り着いたのは再びバスに乗ってから1時間近く経っていたような気がする。「こんなことなら1時間列車を待っていてもよかったかも」同僚の言葉に力なく同意する。

何故かこの時期ニースのホテルが満室で、やっと取れた安宿ホテルのレシェプションには真っ赤なロングスカートを履き、同じ色のカーディガンを羽織った私よりも年配の女性が座っていた。お世辞にも雰囲気がいいとは言いがたい、中途半端に古く暗いうらぶれた感じのするホテルは、それでもここしかなかったからなのか、日本人客もちらほらといて、一人旅のような日本人の中年女性もいた。ネットはレシェプション横のロビーでしか使えないらしく、部屋に荷物を放り込んでからMacbookAirを持って下に降りると、学生たちもスマホを持ってソファにずらりと並んでいた(続く。)

2013/7/10(水)22:16

今年も後半戦に突入。

先週の土曜日、5月に亡くなってしまった知人の会社の(ほぼ)同期2名の人たちと青山のとあるイタリアンで集う。それぞれの悲しい気持ちにフタをして、彼の思い出を笑い飛ばした夜だった。あぁ、そうだったね、とか、そんなこともあったっけ、とか。生きてるとか、死んでるとか、そういう境目が曖昧になってゆくような不思議な時間。これからしばらく、こういう巡礼のような集いが続くのかもしれない。具体的な予定はないけれど、昔の知り合いと、どこかで、会って話をするたびに、共有した何かを確認する、ような。

2013/6/24(月)13:35

先週の土曜日は、今年の春、卒業した学生が就職したデザイン事務所の歓送迎会にお招きいただいたので、池袋まで出かけてきた。本のお仕事をいただいたこともあるデザイナーのSさんと奥さまにご挨拶し、卒業生の3か月分の成長を観察。全然変わっていないところと、成長したところ。これからいろんなことがあると思うけど、がんばってほしい。彼女があと26年働いて、やっといまの私の歳になる。その頃に私は立派な後期高齢者で、生きてるかどうかも怪しい。人生は長いようで短いようで、やっぱり長いような短いような(どっちだよ。)

いろいろと節目感あり。ひとつ思ってること。想像力のない人たちの言動にいちいち傷つくのをやめよう。そして、自分の仕事をしよう。

2013/6/17(月)15:34

昨日の梅は梅干しにすることに。10年以上前に漬けた梅干しが台所のスミの壷に眠っていたのを、昨日久しぶりにフタをあけて中を見たら塩分が結晶になって、霜柱みたいになってた。色も黒ずんで水分はほとんどなくなっていてカチカチだったけど、なめるとちゃんとそれなりの梅干しの味がするので、タッパーに移して冷蔵庫へイン。

って、昨日と同じことを書いてるやん。

2013/6/13(木)13:11

四月から五月にかけての身の回りの変化に気持ちがなかなかついてゆけず。そうは言ってもじくじくと日々の仕事をしているのだけれども。

今年は梅が豊作みたいで、裏庭のくまちゃんの梅もたわわに実をつけたので、二階から手が届く範囲で収穫した。ついでにほぼ10年前に漬込んだ梅干しの壷から梅を取り出し冷蔵庫に移して壷をあけた。梅シロップにするか、梅干しにするか、今夜中に決めよ。

2013/6/9(日)20:35

旅のこと、続き。時系列バラバラですが、広重とゴッホの展覧会。

パリのピナコテークという美術館(1と2がある。)で、ゴッホと広重の展覧会をやっていた。実は旅の最初に訪れたオランダのクレラーミューラー美術館でもゴッホ作品はたくさん見ていたのだが、もっと昔(10年以上前)に来たときにはあったような気がした明るい色の作品が少なかったなと思っていたら、なんのことはない、この展覧会のため、パリに主張中だったようだ。ピナコテーク1では広重の木版画を、道を挟んで斜めに向かい合うピナコテーク2ではその広重と対比させたゴッホの絵を展示していた。まず驚いたのは広重の木版画。多くがオランダのライデン美術館から借りたもので、東海道五十三次、木曽街道六十九次等、どれも保存状態がよく、色がとても美しい。初めてみた木曽街道六十九次の大胆な構図も楽しかった。とりわけおもしろかったのが、初めて見た広重の「下絵」で、軽妙洒脱にさらりと描いてる筆の線が無茶苦茶巧いのに驚いた。特に人物の略図は映画の絵コンテのようにスピード感があり、着物の皺や帯の角度、人物のしぐさをよく表している。現地の人(まぁ、実際はどこの国の人かはわからないが)もたくさん来ていて、日本の風景が描かれた木版画を熱心に観ている。フランス人は日本文化が好きな人たちだと聞いたことがあるが、彼らが真剣な眼差しでガラスに食い入るように観ている姿に「いったい何に興味を持ってるんだろう」と逆に興味がわいた。続いてピナコテーク2のゴッホ展へ。この二つの展覧会は、二人の画家の共通テーマだった「旅」を切り口にしていて、ゴッホの「よきサマリア人」と広重の「東海道五十三次 戸塚宿」、ゴッホの「オリーブの木」と広重の「大日本六十余州名所図絵 播磨・舞子ノ浜」等、ゴッホが真似た広重の構図や画題を追う構成となっている。なかには「それはこじつけやん」と突っ込みたくなるものもいくつかあったものの、概ねおもしろい企画だと思った。クレラーミューラーで見られなかったゴッホ作品もここでたくさん見られたのがよかった。最後に、同じ建物にあるもう一つある展示会場では、東日本震災の後、福島で暮らす人たちのポートフォリオを撮り続けているフランス人の写真家の展覧会をしていて、バストアップの真正面を捉えたモノクロームの大きなプリント(1メートル角ほどあったと思う。)が被写体の方のデータ(住所、職業、年齢)と共に淡々と並べられていた。その多くが高齢者で、意図的かどうかはわからないが無表情だった(少なくとも、笑っている人はいなかった。)どの写真の人も、皺が深く、何かを越えてきたような瞳をしてじっとこちらを見ている。説明には、カメラマンは震災後半年経ったころ現地に入り、村の公民館等にカメラを設置し、避難所に呼びかけて自ら来てくれた人だけを相手にシャッターを切ったとあった。震災後のその時期、そんなフランス人カメラマンの企画に協力しよう、行って写真を撮ってもらおう、と思い立った人たちの気持ちを想像してみたが、うまく想像できなかった(今でもそうだ。)まわりまわってパリでそれを目にする日本人の私は、日本人として何かを感じるべきなのか、それもまだわからない。

それにしても、広重といいこの写真展といい、このときのピナコテークは日本がテーマだったと言っても過言ではなかった。

美術館を出て、マドレーヌ寺院の近くのカフェに入る。カフェオレとついでにレモンタルトを昼食代わりに注文する。このあと例の激混みのダリ展に行くのであるが、このときは時間のことも忘れ、余裕のよっちゃんでパリの街角のそれふうのカフェのテラス席で茶をシバいていた。(続く)

2013/6/7(金)23:46

先週の土曜日はとある方と大久保のチュニジア料理をご一緒してきた。大久保、初めてだったけどディープでおもしろそうな街だった。初めてのチュニジア料理も美味しかった。あっという間の5時間半(!)いただきもののラディッシュも苦くて新鮮で美味しかった。よい日だったな。

今日、4年前に自分があることについて書いた文章をパソコンのなかに見つける。内容は書かないが、昔の自分のことばに救われた気がした。よくぞ書いてくれていた、昔のわたし。季節は巡る。たぶん、次に。目線を上げて前を向かなくては。

2013/6/7(金)11:40

旅のこと、続き。間をすっ飛ばすが、最終目的地のパリでのこと。ダリ繋がりでポンピドーセンターのダリ展のこと。

パリのポンピドーセンターでダリ展が開催されていることは、ネットで調べて事前に知っていた。パリの二日目、まずピナコテークで開催中のゴッホと広重の展覧会を観に行き、それが期待以上におもしくて、ポンピドーに向かったのは夕方3時過ぎ頃だったと思う。センターの前に着くと、まず建物の前に列ができていて、カバンの中のチェックを受ける。建物の中に入り、チケット売り場で何人かの学生に会う。ここでも30分くらい待つ。チケットを入手し、長い長いエスカレータで一番上まで上がったところで、絶望的な気持ちになる。文字通り、長蛇の列がそこにあった。

前の日に観て来た学生が「45分待ち」だと言ってはいたが、とてもそんなふうには思えない。1時間以上はかかりそうだ。今まで何度かポンピドーには来ているが、こんなに長い列は初めてだった。時刻は4時前くらいだったと思う。実はこの日、夕方からパリ在住の卒業生(後輩)に会いに行く予定があったので、お尻は6時半と決まっていた。集合場所がポンピドー前だったので,ギリギリまで観ていられるものの、できれば5時までには入りたい。じりじりとした気持ちで西日のあたる廊下を少しずつ進む。ときどきイタリア人の修学旅行生の塊が集団入り口から展覧会場へ入ってゆくのを苦々しい気持ちで見つめる。出てきてショップに流れる人たちを羨望の眼差しで眺める。早く会場に入りたい。

やっとこさ、会場に入れたのは5時半近くだったと思う。結局1時間以上待ったことになる。中は予想通り、人でごったがえしていた。入り口は巨大な割れた卵になっていて、そこを通ってしか会場に入れない。卵の内側にはドキンドキンという心臓の音に合わせて震える、膝を抱えて丸まったダリのヌードの写真がプロジェクタで写し出されていた。否が応でも期待が高まる。

実は、時間がなかったのと、人が多かったせいで、ここの会場構成をほとんど憶えていない。人の少ないところを目指してあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしているうちに、全体の流れなんか吹き飛んでしまった。デッサンや映像もたくさんあったと思うが、記憶に残ったのは全て彼の油絵だった。ぐにゃりと曲がった時計の絵があった。やわらかいベーコンの絵があった。男が柔らかい卵から生まれてくる絵があった。電話線の絵があった。大空の下で乳房を自分で掴み苦悶する人肉のような絵があった。足が異様に長い象たちが地平線を歩く絵があった。虎が裸婦に襲いかかかってる絵があった。画布の向こうから手を差し出してこちらを睨みつける画家の絵があった。指の骸骨が花を掲げる絵があった。レーニンの亡霊がピアノに並んでいる絵があった。ドロドロした海で全身を油まみれにしながら鮪漁をする人たちの絵があった。キリストの磔刑図を上から見たような絵があった。ガラの後ろ姿の絵があった。頭にフランスパンをのせた彫像や、引出しつきのミロのビーナスの彫刻もあった。ミレーの晩鐘にインスパイアされた作品もあった。その参考資料にと本物のミレーの晩鐘まであった。とにかく、私の知っているダリの作品の全てが、ここにあった。人混みを描き分けながら目の前に作品が見えるたび「これもあるの?」の連続だった。まるでダリの作品集を観ているようだった。

バルセロナのダリ美術館でみた、素のダリとは全く違う、めかし込んだダリの世界がそこに構築されていた。(その意味で、今回ポンピドーの企画力に改めて感服した。ダリの作品をこの密度で見ることができる展覧会なんか、日本では絶対に(絶対にと言い切ってしまう)無理だと思う。〜余談だが、帰国して東京の近美で見たベーコン展がスッカスカの印象だったのはこのダリ展を見てしまったことが大きい。企画の方には申し訳ないけれど。)大きいと思っていた作品がほとんどポストカードサイズだったり、普通くらいだと思っていた作品が巨大だったり、スケール観の組み替えもおもしろかった。遠目に観てちょうどいいくらいの大きな絵の細部、地平線の向こうにチリのように見える小さな物(者)に対し、彼が異常に〜おそらく中年以降の人だと目の焦点が合わないほどの細かさ〜にこだわって描いていることも発見だった。こういうものは画集では小さすぎて見落してしまうことだ。

大急ぎで全体を眺めたあと、名残惜しい気持ちをぶった切るようにして6時30分ぎりぎりに会場を出た。滞在中時間があればまた来ようと固く心に誓いながら(あえなく挫折するのだが。/続く)

2013/6/6(木)16:37

水無月になってしまった。

旅のこと、続き。バルセロナ。

バルセロナの中でも印象的だったのがダリ美術館。前日、早々と行ってきた同僚の感想は「作品はスゴいが展示はバカ。」だった。ふむ、それはおもしろそうだ、と雨のなか一人で出かける。
旧市街のピカソの壁画のある広場の近くにそれはあるらしい。辿り着いたその広場で、傘の下で地図を見返しながら美術館があるはずの区画を何度もぐるぐるとまわったがなかなか見つからなかった。バルサショップのチラシ配りの男性が差し出す手をごめんなさいと会釈しながら避けて通りつつ、頭上にあるはずの美術館の入り口を探すうち、結局彼の前を3度通り過ぎたあとで、やっと美術館の入り口を見つけた。まず観葉植物が置かれた中庭があり、その横の入り口の傍にはダリらしい大きな卵のオブジェが縦に立っていた。折りたたみ傘をたたんで入り口受付の女性からチケットを買い、濡れた傘をどうしようかと思案していると、ここで預かるから、とその女性が傘をカウンター越しに受け取ってくれた。一人ずつしか通れない「自動改札」にチケットを通し、回転式のバーを腰で押しながら展示室に入る。天井の低い展示室はそれほど広くはなく、六畳ほどの区画がいくつかあり、その壁面に平べったい絵がびっしりと貼付いていた。どれも線画をベースにした2色刷りのリトグラフのようで、A1サイズほどの黒地に金の縁のある額縁に収められ、それが上下二段、左右3〜4列にほとんど隙間なく並んでいる。なかには斜めに傾いたまま展示されたものや、ガラスにヒビが入ってるものまである。作品と作品の間の隙間に貼り付いたキャプションはポップな色に色分けされたいくつかの国の言葉が並んでいるが、その紙も印刷の色も全体に色褪せていて、端のところがめくれ上がっている。現在進行形で誰も世話をしなくなった「忘れ去られちゃった感」が漂い、とにかく彼の作品をできるだけ並べたいから観る側の見易さなんて考慮したこともない、という感じの展示だ。

一目見ただけでその物量に辟易としたが、とにかく見る。数点絵を見始めたとき、ふとトイレに行きたくなった。ざっと見渡した視界のどこにもトイレの案内が見あたらなかったので、地下の展示室に降りて探してみたが、そこにもなかった。ちょうどそこにいた掃除の女性に訊ねてみたところ、彼女はうんざりした表情で手を止め首を振りながら「ここにトイレは無い、したければ外に出て隣の建物の公共トイレを使いなさい」と冷徹に私に宣告した。信じられない、美術館なのにトイレがないなんて。呆れる気持ちを抑えつつ、仕方なく上の階に戻ってバー越しに受付の女性に、外を指差しながらトイレに行きたいのだけど、と申し出る。読んでいた本から顔を上げた彼女は、とってもフレンドリーな笑顔でバーを逆に回して私を通し、びしょ濡れの傘を返してくれた。雨のなか再び屋外に出る。掃除の女性の言う「隣の建物」はどこかとまわりを見渡すと、目の前にバルセロナの観光ポスターがたくさん貼られた大きな窓の建物が目に入った。ここかもしれない、と入り口を入る。吹き抜けのある、がらんとした空間に、受付のカウンターがあり、その右手奥の廊下にトイレのマークのドアが見えた。あぁ、やっぱりここだ、とそそくさとドアに近づくと、ドアには前方後円墳型の絵に描いたような鍵穴があり、しっかりと内側から鍵がかかっていた。カウンターにいた中年の男性が私を見つけて何か言うので近づくと、トイレは使用中なので、しばらく待てとのことらしい。近くのソファに腰掛けて待つ。しばらくしてドアがあき、観光客らしい中年女性が出てきて、ドアの鍵をカウンターの男性に返しに来た。お礼を言いながら女性が去ったあと、男性は『お待たせしました』というような表情でその鍵を私に向けて差し出す。重厚で大げさなキーホルダーつきの鍵をうやうやしく受け取った私は、再びトイレににじり寄り、鍵穴に鍵を入れてドアを開け、やっとの思いで用を足す。

美術館に戻る。作品は一階が主にリトグラフ、地階が水彩作品となっていて、地階の一部には彫刻もあった。油絵は記憶にある限り、なかったように思う。ダリの絵といえば、濃厚な質感の油絵だけしか知らなかったから、ここの作品群は新鮮だった。リトグラフは勢いのあるペンの線画に一部ベタ面の色がついたものや、鉛筆のような繊細な線のものもあった。モチーフは擬人化された動物、裸体、骸骨、性器、穴のあいた人物、地平線の見える景色に唐突に置かれた意味ありげな有機物等、彼の油絵の世界観に通じるものだ。それらの線を見ただけで、彼が日々どれだけ手を動かしていた人だったかがわかる気がした。地下の水彩作品群はデコラティブな金の額縁に収められ、石の肌の壁一面にびっしりと並んでいる。モチーフは天使や聖母や悪魔を思わせる人物、キリストの磔刑図やギリシャ神話に出てくる神さまのような人物など、より宗教色の濃いものだ。水彩の「たらし込み」や絵の具をたっぷりと含ませた豊かな筆を思いきり紙の上で振りおろしてできた「ほとばしり」で偶然できた色のしずくや流れを、画家が驚きとともに面白がりながら造っていくスピード感が伝わってくる。これらの作品もあちこちで額縁がゆがみ、無粋な展示用の金具がまる見えだったが、それが全く気にならないくらいおもしろかった。

部屋の奥、一体の彫像の後ろに赤い別珍のカーテンが垂れ下がり、足下にカーテンの奥に誘う矢印が見えたので、おそるおそるカーテンをあけて中に入ってみると、暗い部屋のなかに何体ものブロンズ像がスポットライトに浮かび上がり、黒い壁面にはデッサンや小さな展示ケースが並んでいた。展示ケースに近づくと、なかには深紅の布の上にブロンズ色の金属プレートが七枚、斜めに立てかけられていて、それが聖書の「天地創造」を描いたものだとすぐにわかった。壁のデッサンはそのための習作のようだ。実は私がこの美術館で一番おもしろかったのがこのプレートとデッサンだった。第一日目の混沌とした世界とそこにさす一条の光の場面、第二日目の水を天と地とに分ける場面、第四日目のそらに星と太陽を置く場面、そして第七日目の全ての創造を終えて神が休息をする場面は、それ以外の日(第三日目の植物、第五日目の海と空の生物、第六日目の獣と人が生まれる場面)と比べてモチーフの具体性に乏しく、それをこの画家がどんなふうに捉え表現したのか、以前、自分が同じテーマで絵を描いたことがあったから余計にその表現に興味がわいたのかもしれない。「混沌」をいくつもの浮遊するぐにゃぐにゃしたオブジェで表す彼(⇔水墨の滲みで表現した自分)、天の上と下とに分かれた水を、海と雲とで表すのは同じだが、雲間から明確な指示を出す神の指を描く彼、太陽と星の場面では、図像のような太陽とは対照的に、星を魅力的なポーズをとる卵あたまの人に擬人化する彼、最後の休息の場面では巨大な雲から太い棒のような滝が海に一直線に流れ落ち、その雲から照射される雨上がりのような光のなか、空に鳥が舞う光景を描く彼。そのどれもが彼らしい不思議な浮遊感と同時に地面の重力も感じる絵だった。

次の部屋の馬をテーマにした水彩画のリトグラフ作品群を見ていたとき、階上から日本人の学生らしい男の子二人が降りて来て(ここまでほとんど私一人だった)その部屋の作品を一瞥し「ダリって馬好きだったの?知ってる作品、ないね。」と話し、さらりと作品の前を歩きまわったあとで簡単に出ていってしまった。たぶん絵を描く人たちではないし、日本にいても普段からそんなに絵を見ない人たちなのだろう。この膨大な数の天才の作品のそれぞれの色や形のおもしろさを自分の目で味わうこともなく、自分のなかにある乏しい符合〜まだ若いから仕方ないとはいえ〜に照らし合わせてみて、そこにないものは見る価値がない、と簡単に断じてしまう姿勢がなんだかとてももったいない気がした。せっかくバルセロナまで来て、本物の絵の前にいるというのに。

最後の方の部屋には、生まれ故郷フィゲラスでのイベントのポスターやオブジェ、写真等があった。大きく引き延ばされたモノクローム写真のなかに、最晩年のダリが病院のベッドに横たわっているものを一枚見つけた。数人の医師らしい人に見守られたダリは白いシャワーキャップのようなものを被り、細い腕に点滴の管を刺し、目はうつろで何も見ていないようで、口は半開きになっている。これがいつ撮影されたものか詳細はわからなかったが、おそらくガラ亡きあとのものなのだろう。もしかするとガラの死後に見舞われた、寝室での火事による火傷の治療のときのものだったのかもしれない。いずれにしても半分死んでしまった人の虚無と絶望感がそこにはあった。まわりの往年の自信にあふれた美しい青年〜壮年期のときの写真と比べるとその落差は際立ち、誰にでも平等に訪れる老いの残酷さと同時に、才能の犠牲者としての天才が背負わされた栄枯盛衰の宿命を感じてしまった。ダリさん、あなたはダリという舞台を生きるしかなかったのね。

美術館を出る。ミュージアムショップで「天地創造」のデッサンを質感のある紙に印刷した小ぶりな画集を見つけたが、印刷がいまひとつだったので買う気にならなかった。写真をたくさん撮ることができたので、それでいいやと思った(生まれ故郷フィゲラスにあるダリ美術館もそうだったが、彼の美術館は写真撮影には鷹揚だ。)外に出ると雨はまだ降っていた。カタルーニャ地方で、この季節(3月)に、これだけ雨が降り続くのが普通なのかどうかわからなかった。近くの総菜屋兼カフェでバジルのショートパスタのお昼をどこかしょんぼりとした気持ちで食べた。店のお姉さんが、レンジであたためたパスタに山盛りのルッコラの葉を盛ってくれた。(続く)

2013/5/30(木)23:48

諦めていたGo-liveからDreamweaverへのファイルの流し込みが出来ました(いえ、自力ではないですが。)これで更新しやすくなるかも…。

2013/5/27(月)22:06

この週末は静岡の友達の家に。

同年代3人+彼女たちのそれぞれの子ども2人、計5人の女ばかりの集い。野菜中心の健康的な食事、裸足の足の裏が気持ちよい古民家の床、網のハンモック、緑色の濁った美味しい粉茶、ターザンになった茶畑の山、舟和の芋ようかん、切れかけの羊のしっぽ。

子どもたちが寝静まったあとで真夜中のテーブルの上に並べた、たまたまシンクロしたそれぞれの別れの経験。悲しみとは別の次元の、いなくなってしまった、という現実の乾いた重み。最期は感謝の言葉しか出てこなくなるほどの、生と死のあいだの隔絶と没交渉について。それぞれの対象は別であっても、とぷんと深い湖の底に沈んで話ができたような、有り難い夜だった。

2013/5/13(月)17:39

先週の金曜は雨のなか、京都国立博物館の「狩野山楽・山雪展」に行ってきた。江戸狩野に対しての、京狩野派を代表する人たち。特に山雪の描く動物(虎、梟、猿、龍、ガマ)は魅力的。

翌日は知人の告別式へ。今生で縁あったことに感謝。

2013/5/1(水)00:10

もう五月。

ひとつお知らせ。数学の吉田先生が発起人の震災復興プロジェクト「Nippon2061」が始動しました。私もイラストで協力させていただきました。このプロジェクトは、被災地の中高校に通う理科少年青年たちに向け、専門書やオシロスコープ、測定器、工具等をどーん!と一式プレゼントするという、とても太っ腹な企画で、なぜ2061年かと言えば、震災からちょうど50年後、あのハレー彗星が地球に戻ってくるから。いまの理科大好き少年(青年)たちが震災から50年後、立派な防災研究のトップになることを夢見て(そのときは生きていないであろう)先生(私もだけど)がご自身の印税を原資に立ち上げられた、とっても酔狂な企画です(ほんとに酔狂だと思う。だって著作の印税つぎ込んでるんですよ。→先生、ごめんなさい。でも本当にそう思う。)この企画、共立出版や北海道大学、東北大学のほか、東大や京大等の出版会の協賛も得、寄贈された専門書やお道具の一式リスト(非公開)をこっそり見せていただきましたが、これ、少年を相手に本気になった大人が向き合う気迫に満ち満ちていて、なかなかにすごいリストでした。子どもの可能性を信じておられる(いや、私も信じていますが)「こんな難しそうな本なんかウチの子ども(生徒)には無理!」と諦めてしまう大人に阻まれることなく、本気で学びたい子どもたちのもとに届けばいいなーと思います。募集期間は6月11日まで。窓口は東海大学出版会です。リンク先のPDFに詳細があります。被災地に中高生のお知り合いのいる方、ぜひお知らせくださいませ。巷でよく聞く「子どもたちを守る」という本当の意味って、こういうことじゃなかろうか、と先生の活動を見ていて思うわたくしです。

2013/4/17(水)22:10

新学期2サイクル目。そして村上春樹さんの新刊を読了したり、など。

おとといは新任の先生の歓迎会が百万遍の居酒屋で。新メンバーが増えて女性スタッフの比率があがり、にわかにスタッフルームが使いやすく、きれいになっていく感。また昨日はS先生が自作のケーキを持ってきて下さったりしてお茶の間な雰囲気も。多様性はあった方がいいなぁ、やっぱり。

旅の話。

今回の旅のスタートはオランダのアムステルダムだったのだが、そこを選んだ理由の一つが、クラスメイトの一人が短期の交換留学中だったこともあり、彼に会いにゆきたいね、と学生側から話があったからだった。ちょうど私たちが行った頃に留学生活3ヶ月目を迎えていた彼は、現地で買ったというごつい自転車で私たちが泊まるホテルのロビーまで来てくれていた。日本から学生たちが持参したスルメ等のお土産をもらった彼と一緒に、中央駅の近くでもう一人の(こちらはオランダ人で一年前?にうちの学科に留学していた)学生と待ち合わせ、夜の中央駅裏のアルゼンチン料理の店で、この旅最初の晩餐となる。

オランダ料理はマズい。マズいと言い切ってしまうことに語弊があるなら「合理的すぎる」。オランダのガイドブックには「オランダ名物インドネシア料理」と書いてあるほど、オランダ料理の印象は薄く、豆のスープか、クロケットと呼ばれる俵型のコロッケか、ニシンの酢漬け(ハーリング)くらいしか私は思いつかない。食べることに豊かな文化を持つラテン系の〜フランスやイタリアやスペイン〜料理なんかに比べると、栄養摂取と空腹を埋めるだけが目的なのではなかろうかと思うほど、食に対するどん欲さが感じられない。昼はホットミールなんか必要ナシ、サンドイッチで十分という感じの。で、この日に地元民の留学生Mが連れてってくれたアルゼンチン料理だが、フタを明けてみればなんのことはない、基本、ジャガイモ、豆、肉、の順列組み合わせ、味付けは塩&コショウだけ、みたいなモノばかりで、これはオランダ料理とどう違うのか、実のところよくわからなかった。私が頼んだ豆料理は山盛りの茶色いエンドウ豆の下に硬めの豚肉のソテーが隠れていて、長時間フライトのあとで食べる豆の優しい味に最初こそ喜んだものの、すぐに食べるのに飽きてしまった。関空を出発してから約20時間、ほとんど一睡もせず、夜のアムステルダム中央駅付近の怪しい裏通りまでやってきて(まわりはコーヒーショップやセックスショップもあった)アルゼンチン料理の豆を食べ続ける行為のおかしさ。(そういえば去年のベルリンではトルコ料理とキューバ料理を食べたっけ。基本、ドイツやオランダ等、EUで真面目に働く国の料理ってマズいような気がする。国は傾きかけてても、スペインやイタリアの方が料理は美味しいよなぁ…と私は思う。)

帰り道。アムステルダム市内と空港のちょうど中間地点にある大型ホテルまでトラムで戻る。直線だけで構成された、見るからに合理的な建築が整然と並ぶエリアだ。同じく四角いホテルの部屋はネットがサクサク繋がり、持参したMacBookAirでメールが無事受信できるのを確認、四角い大きな窓から見えるのはホテルの屋上で、別に心躍る風景でもない。明日の予定を考える余力もなく、風呂に入ってそのまま撃沈。続く。

2013/4/12(金)12:59

あっという間に新学期が始まって1週間経過。校舎の引越で一番遠い距離を歩くことになり、日々足腰が鍛えられる感(おおげさ)。1年のオリテでは三千院に写経に行ったりもし、新しく来たひとたちも加わり、まわりで花粉症の人が続出し、なんだか「春!」な今日このごろ。

今週の火曜の朝方にネコが突然行方不明になり、次の日の未明まで帰ってこなかった。時間にすれば大した長さではないものの、こんなことは初めてだったのと、高齢(16歳)ということもあり、日中学校に行ってるあいだも心配でしょうがなかった。まさか自分かこんなに猫に依存しているとは…。真夜中に「ニャー」と帰宅したときは空耳かと思ったほど。あぁ無事に戻ってきてよかった。

そんなこんなで、いろいろ動いております。旅日記もぼちぼちと書いてゆきます。

2013/4/7(日)18:01

旅の話。バルセロナ初日。
今回の旅では、たくさん写真を撮られた。今回の学生が普段から写真を撮り合うのが好きな人たちだったせいか、私たち教員はどこに行っても、何をしていても(それこそ列車の運休やバスの行き先を間違えて途方に暮れ、眉間に縦じわが寄っているときでさえ)カメラ越しの目線を感じた。いつもは風景と美術館の作品群と数枚の学生の姿しか残らない私のパソコンのi-photoには、あちこちでいろんなことをする自分の姿がたくさん保存されることになる。写真といえば一年に一度、学校の広報や仕事用のポートフォリオに載せるものを数枚撮る程度だったので、今回積み上がった自分の顔(おそらく100枚近くある)は、いろんな角度から見たいまの私の姿が客観的に捉えられていて、なかなか興味深かった。
実は私は白髪が多い。気にしてないと言えば嘘になるが、私の性格上、一度染めたらずっと染め続けなければいけないという重荷に耐えられそうにもないため、これはこれで仕方ないと諦めている。今回、写真にもその現実は残酷なほどはっきりと写されていて、夜の室内ではともかく、外の白昼光で見る私の頭はまるで婆さんのようだ。
「一度みんなでなぜ大高先生は髪を染めないか、を話したことがあるんす。」と学生から言われたのは、真夜中の雨のバルセロナを空港からホテルへ向かうタクシーの中だった。ストライキのせいでアムステルダムからの飛行機がバルセロナに着いたのは23時過ぎ、それから荷物を回収してタクシーに乗れたのは0時近くだったと思う。ホテルのある市街までは30分程度のはずだが、治安のあまりよろしくないバルセロナで、他に交通手段のない日本人観光客17人がタクシーに分乗するという状況に「カモにされてしまうのでは」とみな気持ちをこわばらせていた。スーツケースがあるため一台に3人ずつしか乗れない。せめて3人のうち1人は男を混ぜて分乗するメンバーを編成することにして、男性教員3人と男子学生2人にそれぞれ女子学生が2人ずつセットになり、最後に残った私と一人の学生が小さめのタクシーに乗り込んだ。運転手に行き先の地図と住所を見せ、雨降りの高速道路のオレンジ色の光を呆然と眺めたあと、シートにもたれることも忘れ、緊張した背筋のまま運転手の後頭部と料金メーターを睨みつけていた私に学生は話しかけてきた。
「自分の歳に先生はどんな絵を描いていたのか」「その頃に既に今のタッチが出来上がっていたのか」旅のことよりも学校にいるときと同じような制作についての彼の一生懸命な目と言葉に「いま、この状況でここでそんな話する?」と思いつつ、私の昔の絵は全然違ったし、絵のタッチなんか仕事を初めてから少しずつ出来ていった、というようなことを答える。「マジすか」と相づちをうつ彼。マジだよ、と思いつつ「いまの君たちの方がぜっぜんうまいよ。」とも言ってみる。これから絵を描いて生きてゆこうとしている彼の将来への不安は痛いほどわかるつもりだが、それより今は目の前の料金メーターの方が私ははるかに不安だよ、と思っていると「話は変わるんすけど」と前置きしたあと「なんで大高先生は髪を染めないんすか」と唐突に彼は聞いてきた。「へ?」1オクターブ声が裏返ったと思う。話の急な展開に「そ、染めた方がいい?」とうろたえながら逆に聞き返す。「いやっ、いいです。そのまんまで。」と全力で否定した彼は「一度みんなでなぜ大高先生は髪を染めないか、を話したことがあるんす。」と続ける。教室にいつもいるメンバー数人が私の白髪について話し合っている場面が頭に浮かんだ。なんだ、この光景。「で、どうだったのさ?」この質問への彼の答えをうかつにも私は憶えていない。ただ、以前同じクラスの観察眼のするどい女の子に「私、大高先生の髪の色、好きですよ。」と言われたことがあったのを思い出す。彼女の発言の発端はこれだったのか、と心のなかで膝を打ちつつ、こういう状況下(バルセロナ、雨、真夜中、タクシー)でこんなことを聞きたくなるほど、彼らが私の白髪に興味を持ってくれていた、ということが可愛らしくおかしかった。そして(お世辞かもしれないが)自分の年齢を不本意ながらも受け入れてゆくことを若い人から肯定してもらえた気がして嬉しかった。私は染めないで、このまんまで、いいや。
タクシーは高速道路を降り、見覚えのあるソテツ並木の海岸通りを走っている。ロータリーには柱の上にコロンブス像が海に向かって指を指して立っているのが見えた。あたりの木々にはオレンジがたわわになっている。極寒だった薄暗いアムスから、地中海に開けたバルセロナへやってきたのだ。「あー、もうここまで来たんだ。もうすぐホテルだよー。」怖れていたほどには上がらなかった料金メーターに安堵しながら話題を変える。道路の真ん中の緑地帯に4本足でしっかりと立つボテロの大きな猫の彫刻を横目に見ながら、一方通行の道をぐるりとまわってタクシーがホテルの正面に着くと、他の車も続々と到着して荷物を下ろしているのが見えた。スペイン人らしい黒く鋭い目つきのポーターが玄関先に出てスーツケースを運び入れるのを手伝ってくれた。無事ホテルにもチェックイン完了。幾人かは夜の街に飲みに出かけ、私はホテルの部屋の自分のベッドに倒れ込む。こうしてバルセロナの一日目の夜はふけていった。続く。
2013/4/6(土)10:08

久しぶりの更新。

先月半ば、欧州旅行から無事、帰還。今回の旅はハードだった。アムスからバルセロナへ向かう飛行機がストライキで飛ばなかったり(奇跡的に一便あとの飛行機が取れたものの、バルセロナ着が真夜中になったため、空港から総勢18人がタクシーで移動するハメに)、ニースからパリへの夜行が雪のため運休になったり(翌朝出発のTGVのチケットが無償で配布されたものの、その夜のホテルを確保するため、その日の朝チェックアウトしたホテルに再び交渉、4人部屋をいくつか確保してもらったり)。おまけにあのバルセロナで一日中雨(とても珍しいと思う)、続くニースでも雨、パリは積雪、そして学生の一人がスリに遭ったり、別の学生はi-Phone落としたり(そのためにバルセロナの警察署で書類と睨めっこしたり…)。終わってみれば想い出深い旅になったものの、ストや運休について、その時々は教員全員の顔が青ざめ、天を仰ぐ気持ち。あぁとにかく無事で帰ってこれてよかった。

で、今回の旅でのめっけモノは「ダリ」だった。後日詳しく書くつもりだが、バルセロナのダリ美術館にあった山のようなリトグラフと水彩作品に圧倒されたあと、パリのポンピドーで開催中だったダリ展、これがもうとにかく凄かった。会期の終盤ということもあり、入場するのに約1時間待ち、こちらのそのあとの予定が詰まっていたため、見ることができたのがたった1時間だったのだが、彼の異常さ、天才をこれでもかと思い知った。そしてポンピドーの企画力。集めてくる作品の充実ぶり、会場の作り方等、あー、かなうならもう一度ちゃんと時間をとって見にゆきたい。(それにしても毎年この時期、ヨーロッパの各地で出くわすイタリアからの修学旅行生が、ここにもたくさんいて「おまえら普段絵なんか見ないくせに、わざわざこんなとこに来るなよな」と毎回思う(これは日本人観光客にも言えるのだけど。)ほんとうは美術教育的にはこういう鑑賞は大切なのは頭ではわかっているつもりだが、つい目の前のダリ作品も観ず、自分たちの写メばかり撮りあいっこするティーンエイジャーの女の子を観ると「そこをどけ!」と心が黒くなるわたくし)。

そのほか、パリでは卒業生のKさんに会いに行ったり、ガルニエで初めてオペラを観たり、スーパーで売られていた発酵バターのエシレが日本価格で2,000円以上する250グラムブロックが、なんと2.4ユーロだったのがショックだった(小さいことかもしれないが…。許されるなら2キロくらい持ち帰りたかった。)

そんなこんなで、書き出すととまらないので、今日のところはこのへんで。

今はもう入学式も終わり、来週からは新学期がいよいよスタート。いろんなことが刷新されてゆく季節。がんばるー。

2013/3/1(金)00:43

あっという間に3月で、今日からまたしばらく旅に出ます。今回はアムス、バルセロナ、ニース、パリ。いろんなことに後ろ髪引かれつつ、留守の人たちに猫を託してとにかく行ってきます。メールはチェックできますので、何かあればメール下さい。お仕事も帰ってからがんばりますので、下さい(単刀直入)。では!

2013/2/18(月)00:09

ついこの前、一月が終わったと思ったところだったのに、もうバレンタインを過ぎて、明日はもう卒展の搬入日。スタッフルームも移動して、教室に大量の段ボールと共に机を借り拵えして雑務等を片づける日々。

そんな中、ちょっとキツい知らせが届く。覚悟はしてたけど、私にはどうすることもできないけれど、受け止めるしかないのだとわかっているけれど。ここで書いても仕方ないことなんだけど。どうしてなんだよーーーーー。

2013/2/1(金)14:53

一月終了。

引き続き引っ越し作業週間。やってもやっても後から後からポロポロ学生作品が出てくるのでエンドレスの感。いずれにしても来週には部屋を追い出されるので、この作業もあと少し。

組織で働く、というのをやってきて、もうすぐ10年。大学を出てから、最初の数年以外は、ずっとフリーランスだったから、この10年の厚みというのは結構な長さなんだけど、振り返ってみると、なんと早くてあっという間の出来事だったことか。自分の力で成し遂げたことなど、ほぼ皆無。自分の絵の力量もほぼ必要とされないまま、移動と雑用に明け暮れた10年未満。まさに、大いなる回り道。それでも仲間(仲間、と呼べる人たちがいた、というのは結構貴重なことである。)と一緒に何かを決めたり、助け合う作業は楽しかったし(同僚がみなホントに素敵な人たちだったからというのもある)何より、若い人たちと知り合えたことは財産になった。「最近の若者は…」という言説も、具体的な顔が見えるとそんな言い方で括れなくなったし、今二十歳前後のヒトたちが、この先どんな大人になってゆくのかが楽しみでもある。(その後の姿を見せてくれれば、の話だが。)
絵を描いてるだけではおそらく気付けなかった世界への興味も持てたし、その全てがこれからの私に必要かどうかはわかならいけれど、ただでさえ間口の狭い、世間知の乏しい私には、世間を知る、という意味での、ある意味矯正とも言える大学勤務経験は本当に有り難かった(ま、それでも大学というずいぶん恵まれた職場環境での話ではあるのだけれど。)

って、なんだか先生を辞めるみたいですが。いえ、まだ辞めませんが。かといって、このままずっと老人になるまで大学にいられるわけでもなく、いずれどこかで軸足を元のフリーランスに戻すのだろうな、と昨日わりに現実的に思ったことを、今日ここに書き留めておきます。残り時間のこと。そういうことを最近考えます。

2013/1/25(金)16:28

引き続き引っ越し作業週間だった。学生作品なども梱包。だんだん手際良くなってる。段ボールもガムテも配給分は払底してまったので続きは来週。

6年間通ったあのスタッフルームとも来週でお別れ。そして二月になるとこんどは卒展があり、卒展が終わってすぐ研修旅へ。今度の行き先はアムス、バルセロナ、ニース、パリ、18日間(!)。帰ってきた翌日に経理処理をしに大学に行き、その翌日には卒業式があり、多分その夜に二次会があり、ほとんど徹夜でカラオケに行き、その週末にはこんどは引越先の校舎に荷物を移動し、その1週間後には入学式がある。そしてこの間のどこかで確定申告もしなくては。なんてアクロバティックな2ヶ月!(いったいどこで時差ボケを解消すればいいのだ?)だいたいこんな状況で3週間近くも旅になんか出られるな、と思われるかもしれないが、教室もスタッフルームも文字通り「ない」状況で、学校にいても仕方ない。旅にはMacBookAirを持ってくので、あっちでいろいろなんとかする。そういうことにした。2月前半の比較的おだやかな時期に会っておきたい方もいるのだけれど…すみません、また連絡します(って誰に言ってる?)

2013/1/18(金)12:02

後期最後の週の授業も終了し、来週からは試験期間、そして学生たちは春休み。4年生は卒業制作と卒展の準備。スタッフルームでは引越準備で日々段ボールが積み上がる。いろんなことが節目にきてる感。ひしひし。そして公私にわたり、いろんな人に赦してもらってると感じること多し。ありがたい。

2013/1/16(水)10:39

冬休みがあけたとたん、の三年生の展覧会がおとといから、京都三条の同時代ギャラリーで始まってます。20日まで。

で、13日の日曜日は上記の展覧会の搬入で19時から制限時間2時間で33名の作品を一気に展示したあと、近所の居酒屋で晩ご飯。来月の学科の引越や卒展、3月の旅行のこと等、いろんなことがこれから一気に走り出すんだよねぇ、おそろしいねぇ、などと話す。翌日は夕方からのオープニングに、ご近所の怪しい人たちが紛れ込み、ちょっとしたハプニングもあったのだけど、まぁ楽しかった。そして次の日は毎日広告賞の締切り日で、小野先生の今期最後の絵本の授業など。

そういえば、下鴨神社に初詣にも行ってきた。久しぶりの下鴨神社で引いたおみくじは「中吉」で、「願いごと」は「かなう」、「待ち人」は「急用のため来られない」だそう。何や急用って?そしてバーゲンでは真っ赤なコートを衝動買いしてしまった。既に後悔しているものの、春先まで着られそうな綿の軽めのデザインなので、これがさらりと着られるようなパワフルな人になりたいと願う今年のわたくしです。がんばるー。

2013/1/8(火)22:17

あけましておめでとうございます。

あれよあれよという間にお正月も八日になってしまって、今日から学校も始まった。新年早々、初出勤でAirMacを東京の家に忘れたまま、京都行きの新幹線に乗った瞬間に思い出す。なんてこったい。

お正月明けは箱根の温泉へ。二泊三日でゆっくりしようと思っていたのに、元来の貧乏性であちこち動き回り、結局休んだのか疲れたのかわからないような慌ただしい年始だったが、それなりに日常を離れることは楽しかった。いただいた年賀状を読み返しながら、この歳になるとみんないろんなことがあるのだなぁ、と、とりあえず病気にならずに暮らせている我が身がありがたくもある一方で、明日は我が身と思えば、他人事のような慰めを言うのも違うような気がして、とにかく「今年がよい年でありますように」と、気持ちをざっくりまとめて返す賀状に書いてみる。いろいろあるけど、みんながんばりましょうねん。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。ぺこり。

2012/12/31(月)20:44

2012年も最後の日なので、今年一年を振り返る。

わたくしの今年の5大ニュースは「素数夜曲」に絵を描いた。ベルリンに行った。水虫になった。言いたいことを少し言えた。祖母の一周忌で神山を再発見。新しい画材を使ってみた。以上。(あ、6つある。)

それぞれについては、長くなるので書かない。まとめると、そこそこ悪くない年だった(←まとめすぎ)。仕事もそれなりにあったし、一応、健康に過ごせた。あと何年生きられるかわからないけど、できるだけ自分にとって大切なことを優先してゆこうと思う。残り時間はたぶん多くないだろうから。

そのようなわけで、今年もこのメモを見に来て下さった皆さま、ほんとうにありがとうございました。すっかり更新がまばらになり、旅日記も頓挫したままですが(そしてあと数ヶ月で次の旅が始まるのだが)来年もおそらくこんな感じだと思います。でもときどき、病んだようにここに書き綴ることもあるかと思いますので、よろしければまたちょくちょく覗きにきてやって下さい。

それでは、2013年がみなさまにとって、よい一年でありますように。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

2012/12/28(金)11:44

学校も冬休みに入り、家の片付けなどをしているうちに、クリスマスと忘年会と誕生日が過ぎてゆき、そしてもう年の瀬。一体私は何をしてたんだろうと呆然とするほど、今年は時間が経つのが早かった。それでもいくつかあった、今年の記憶に残るモノたちを書き留めておく。笹ジィの展覧会、ベルリン、ベルリンのユダヤ博物館で買ってきた真っ赤なトートバッグ、MacBookAir、ピナ・バウシュの映画、素数夜曲、パラドクス絵本、上高地、新しい画材たち、神山の里、そんなとこか。

新しい画材について。実はこの秋のHBファイルコンペに久しぶりにトライしてみたのだけど、

2012/12/17(月)14:05

先週末にやっと東京に戻れた。選挙にも行った。結果については前が前だっただけに、そうなるだろうと思っていたけど、投票率の低さには愕然とした。なんでだ?

私なりにマニフェストを読み、足りない頭で思いめぐらし、とりあえず今の選択肢でベターなところに投票してみた。バランスも大事だと思ったので比例区と小選挙区は別にしてみた。結局(と言ってしまう。細かい諸事情のことはさておいて。)自立しなきゃなんないのだと思う。強いお父さんはもういないし、まわりは親切な人ばかりでもない。ジャイアンにいじめられたら、そっぽをむいてひきこもっちゃうのび太になれたらいいのにね。ドラえもんはいなくても、自分の部屋に自前の資源と自給率100%の農地を持ってる引きこもりはけっこう強いぞ。

2012/12/14(金)17:57

この週末も東京に戻れず。先週の水曜は3年生の合評あけの忘年会で朝の5時まで。さすがに体調を崩したのと週末の〆切が重なり、東京に戻るのを諦める。そして今週は3年生の進路面談スタート。毎年のことながら、我が身を振り返る機会でもあり、いろいろ思う。今年の3年生の男の子は就職を視野に入れてない人がちらほらいて、しかもみなさんブレがない。具体的なことは言及しないが、いずれも一昔前なら「そんな夢みたいなこと」と親が眉をひそめる種類の道である。大人として「大丈夫か?」と心配ではあるものの「普通の会社に入って…」と、野暮なことも言いたくない。なんとかなるよ、根拠ないけど。(って物わかりのいい対応がいいのか、おさえつける方が彼らの反発心を煽って効果的なのかは、悩ましいところだが。)英語ができて、絵が描けて、デザインができて、この冬からヨーロッパに留学する男の子。まだ21歳やそこらで、そんな可能性があるなんて、心配いらないよ、大丈夫だよ、という前に羨ましいぞ、はっきり言って。そのまま日本に帰らなくってもいいのだよと、言ってしまいたくなるここ最近、本気で思ってしまう選挙前。

2012/12/6(木)23:06

師走になってしまった。

2012/11/30(金)16:03

先々週末、祖母の一周忌に徳島に帰ってきたので、その話。

前日からバスで入った徳島は大雨と風で、駅前から駅前のそごうまで移動しただけで、鞄の中までずぶ濡れになった。ほんとうは電車に乗って四国八十八ヶ所の一番札所、霊山寺まで行ってみたかったのだけど、雨に負けてあえなく断念。早めにホテルに入ってそのまましばらく寝てしまう。夕方起き出し、晩ご飯の調達するため町に出たものの、地方の居酒屋に下戸女が一人で入れるわけもなく、シャッターのおりた商店街をぶらついて、地元のスーパーの総菜コーナーが美味しそうだったので、ここで金時豆入りのちらし寿司と酢の物と鳴門金時の大学芋を買って帰り、ホテルの部屋でもそもそと食べた。翌日は朝のバスで市内から1時間ほどの祖母の家のある神山へ向かった。途中、ほとんど乗り降りする人のいないバスは、子どもの頃に乗ったときにはどんな山奥へ連れてゆかれるのかと思うほど、暗い緑の長い山道を延々と走った気がしたものだが、今乗ると、あっけないくらい、すぐに祖母の家のバス停に着いてしまった。一緒にバスを降りた黒いスーツ姿のおじいさんの後ろからとぼとぼと歩いていると、そのおじいさんも祖母の家の坂道をおりていったので、びっくりした。ちょうど京都から早朝に移動してきた父母も車で到着し、叔母が出迎えてくれた家のなかに入るといろんな親戚がごちゃごちゃといて、お茶をもらってコタツに入る。さっきのおじいさんもソファに座ってお茶を飲んでいた。ほかにもどこかで見たことのあるような人が何人かいて、適当に会話しながらおじゅっさん(住職)の到着を待つ。

一連の法要が済んだあと、足の元気な人だけで山の上にあるお墓に参った。雨上がりのぬかるんだ道は、子どもの頃に登ったときのままで、そこを15歳年下の従兄弟と喋りながら歩いた。彼は最近スマホでの画像加工にハマっているらしく、いろいろと写真を見せてくれた。お墓に手を合わせて下山。戻ったあとで、昔のままの蔵や井戸をその従兄弟が見せてくれた。井戸はこんなに小さかったかと思うほど囲いの石が低かったが、滑車は昔のままで、傾きも錆び具合も昔のままだったような気がした。2歳年下の従姉妹と一緒に「小さいね〜。変わらないね〜。」と笑う。蔵はまだちゃんとあって、私が5つで、従姉妹二人が3つと2つ、3人がこの蔵の前の階段に並んだ白黒写真があるのだが、そのときのまんまの石、入り口の引き戸もそのままだった。「この前に五右衛門風呂があって、おじいちゃんが薪で焚いてくれたんよね。」「ここに汲取式のトイレがあったよね。」「夜は真っ暗だったね。怖かったからトイレに行くの我慢してた。」「あそこに土間があっておばーちゃんは釜でご飯焚いてたよね。」「土間にペプシとファンタがケースで置いてあったよね。」「餅つきのときはここでせいろを重ねて餅米蒸してたよね。」等話はつきず。そのあと、どうしても行ってみたくて従姉妹と二人、川におりた。途中、昔よく祖父が世話をしていた棚田の田んぼは今は全部梅畑に変わっている。ハイヒールを履いてきた従姉妹も私も二人とも喪服のままで急斜面のケモノ道を竹を掴みながら転がり落ちるように川原まで降りた。川原は昔よりも石が増えていて、川が遠くに感じた。昔よく遊んだ淵には、上が平な大きな岩が今もあって、そこに昔真っ黒に日焼けした小学生だった私たちがメザシのように一列に並んだ写真のときのままだった。水はあの頃と同じでみどり色に澄んでいた。「私、人の目さえなければ、この水に入るのに。」と博多でキャリアウーマンをしている美人の従姉妹が残念そうに言ったので「誰も見てないよ。入ろうよ。」と靴のまま川原から浅瀬に飛び移ってみる。水に手を入れると、そんなに冷たくなかった。平べったい石がたくさん落ちている。「昔はこうやってひゅんひゅん!って投げて遊んだよね。」「やったやった。」と笑う。でも結局、川には入らなかった。人の目より黒いストッキングを脱ぐのがめんどくさいという理由に、歳をとってしまった自分を感じてちょっと酸っぱい気持ちになる。「今度は夏に来ようよ。絶対泳ごう。」そう従姉妹と誓い合う。今度はちゃんと子どものときに戻るのだ。

家に戻り、今度は15歳年下のいとこたちの車で山奥にある大きなイチョウの木を見に連れてってもらった。20歳年下の従姉妹の運転する車で走る神山の里はほんとうに美しい里だった。子どもの頃は、ただただ何もない田舎だと思っていたのに。道の駅ですだちのような色の大きな神山産のレモンと、原木から採れた椎茸、スダチドレッシングを買う。農協に勤める従兄弟の話だと、最近では都会から越してきている若い人たちもちらほらいるとか。芸術家もいるのだそうだ。「古い家なんか結構あるで」との話に「もしさ、人生行き詰まったら、神山に来たら暮らせる?」と聞いてみる。「なんぼでも安い家あるで。車ないと生活でけんけど、運転したるわ。」と力強い返事。博多の従姉妹も「私もそうしよーかなー」と笑う。別にいま人生に行き詰まっているわけではないけれど(ある意味、既に行き詰まっているとも言えるのだけど)こういう場所があることに、言いようのない安心感を覚えた。祖父母はもういないけれど、子どもの頃に従姉妹たちと猿のように遊んだ山や川の記憶は私の一生モノの宝もの。おばあちゃん、ありがとうな。

2012/11/15(木)00:19

半月ぶりのメモ。

もう霜月も半ばだとは。ここ2週間のあいだに、ギャラリーを巡ったり、髪を切ったり、卒業制作の相談をしたり、本の打ち上げがあったり、3年生の合評があったり、ファイルコンペの準備をしたり、卒業生と会ったり、山本容子さんの授業があったりした。明日からは入試で私はお休み、明後日から祖母の1周忌で徳島に行く。この前、祖母の家(今は伯父の家)に行ったのは25歳のときだったから、もうかれこれ22年も前になる、ということに今気付いて愕然としている。今でもときどき夢に出てくる祖母の家。土間があって井戸があって便所は外にあって汲取式で臭かった。お風呂も薪で焚いていた。その頃の家の思い出は強烈なのに、伯父が建替えて暮らしやすくなってからの家には大人になって以来、2度しか行っていないせいか記憶がほとんどない。昔の川の色や製材所の音も鮮明に憶えているのだけれど、今はどうなってるんだろう。子どもの頃、夏休みに集まって猿のように遊びまわった従姉妹たちとも再会できる。楽しみ。

2012/10/31(水)12:36

今日から大学祭で授業はお休み。しばらくは家で仕事ができる。

最近、マネージャーのメアリーさんの仕事ぶりが神がかってきていて、ひとつ納品を終えるか、ラフを上げて見通しがたったその日にポンと次の仕事が入ってくるようになった。一つの仕事に集中できて嬉しい反面、一つの仕事を終えるまでは、次の仕事の見通しが立たない不安定な日々でもある。うぅ。もう少しレギュラーの仕事が増えてほしいなぁと思いつつ、毎月拘束されるのは今抱えてるのと学校だけで十分な気もしていて、飛び込み仕事の連続でどこまで生き残れるのか、これはこれで楽しみなような…。

旅日記が途中で頓挫したままなのに、もうそろそろ次回の旅の計画の話が出始め、時間の流れの速さにびびっている。月日は流しそうめんのように流れる…するする。この旅はどこまで続くんだろ。

2012/10/27(土)23:04

この週末は京都。

最近、サイトのカウンタのまわりも遅くなっているので、ここを読んで下さる人も少なくなっているのだと思うけど、ツィッターや顔本がどうも苦手な性分らしく(今さら気づく)やはり本当に書きたいことは、ここでブツブツ書いてゆこうと思います。

今日は大阪に卒業生の展覧会に行ってきた。久しぶりにミナミに出たのだが、相変わらず濃い町だった。昔、勤めていたときは大阪がどうにも好きになれなかったのだけど、いま旅行者気分で歩くにはとても楽しい。自由軒に行きたかったのに、道を忘れてピッツェリアでパスタを食べた。店の謳い文句は「心斎橋のミラノ」(あぁ大阪。)店員が何かことあるごとにイタリア語で「グラーッチェ!」を連呼するのが、まるで餃子の王将の「イーガーコーテー!」(餃子一枚!)を連想させた。そのパスタ屋のある通称「ヨーロッパ通り」から心斎橋筋に戻ろうとしたら、道の向こうのビルの上に大きな自由の女神像がこっち向いて建っていた(あぁ大阪。)道頓堀のグリコもかに道楽も相変わらず派手だった。道行く人もどことなく、濃い。心斎橋筋の「不二家」のケーキ販売店舗がダロワイヨになっててびっくりした(大阪らしくない。)大丸の地下で穴子の押し寿司を買う。同じフロアで子どもの頃、母がよく買ってきてくれていたカステラの「GINSO」のピンクの箱は「あっさり」タイプだったことを知る。こちらは栗カステラを買って帰る。

2012/10/24(水)22:55

京都の家のMacからもサイトの更新ができそう。よかった。ここ数日のできごとなど。

先週半ばは4年生と一緒に毎年恒例の常神半島に魚を食べに行ってきた。今回は思いのほか参加人数が多く総勢23名。シマアジ、ヒラメ、タイ、ぼたん海老、烏賊のお造りをたらふく食べ、喋ってきた。驚いたのは、今年の4年生がほぼ全員、朝の4時過ぎまで私たちと一緒に起きていたことで、今まで大人しい学年だとばかり思っていたのに、ちょっと印象が変わった。中には朝方の暗いうちに外を散歩してくる人もいたし、太陽が昇ってから宿の更に先の岬にある公園のブランコで遊んできた人もいた(同じ人たちだが)。翌日学校に帰ってきてから、嬉しそうに「また来年も卒業前に連れてって下さい!」と笑う学生もいて…。何なのよ、この人たち、かわいい。

ドライブの最中は行きも帰りも学生たちのi-podから音楽をかけてもらったのだけど、夕暮れの常神半島の暗い夜道で聞いたTortoiseがよかった。シカゴ音響派というのだそうだ。去年の人たちにも教えてもらったのだけど、そのまま忘れてしまっていたのを、今回また思い出し、そして今年はちゃんとおぼえた。マイスパレードと一緒に。

若さと不安定な気持ちの狭間でぐずぐずしている若い人たちを見ると、背中をなでてあげたくなる。波を乗り越えながら自分の力でぐんぐん渡ってゆく人より、何かで躓いてしゃがみ込んでる人に「見ているよ」と言ってあげたい。たぶん、私自身がそうなんだと思う。がんばれ、わたし。

それから唐突だがスーツケースを新調した。毎年行く研修旅行のたび、古くて重いサムソナイトを転がしていたのだが、さすがに私の体力ではもうしんどくなってきたので、いろいろとネットで調べた結果、リモアとゼロハリバートンに絞り込み、実際に丸の内の店をまわって触って開けて引っぱって、ゼロハリのマットシルバー色のものに決めた。意外だったのは自分が「軽さ」や「丈夫さ」以上に「見た目の良さ」を重視したことで、長年使うものならプロダクトとしての美しさはやはり大切な要素なのだと今更ながら。あと、やはりメイドインジャパンの質の高さ(ゼロハリは数年前から日本メーカーACEの傘下に入っているらしく、それ以前のアメリカ製の塗装と見比べるとやっぱり日本製のものが美しい。またファスナーもYKKで開け閉めがスムーズ。これはポリカーボネイト素材のスーツケースの場合、とても重要な要素で、この点、ブランドはドイツでも生産国がチェコか中国産になってしまうリモアよりゼロハリに軍配が上がった。こう書くとまるでゼロハリの回し者のようだが、リモアのアジア限定色のグリーンにもかなり惹かれていたので、いつかもっと歳をとり、無駄のない婆さんになれたとき、シンプルなデザインのリモアにしてみるのもよいかなと思ったりしている。(余談。スーツケースを見すぎたせいで、最近、道行く車の色や曲線や塗装が気になって仕方ない。地下鉄の車体にも反応している。)

2012/10/14(日)16:28

またまた一月ほど間があいてしまった。後期が始まったとたん、びゅんびゅんと時間の過ぎるのが早すぎて。もう来週は4年生と常神に行くのだよ。ついこないだまで夏休みだったのに、あっという間に年末なのだ。そしてまたひとつ歳をとる。うぅ。そうこうしているうちに、サイトのキリ番170,000番が先日出まして、踏んでくれたのは卒業生の金魚ちゃんでした。狙ってくれてありがとう。金魚ちゃんには素敵なモノを送りますので、楽しみにしていてくださいね。

2012/9/17(月)23:06

一月ぶりのメモ?というくらい、時間感覚がなかった。いや,別に何をしていたわけでもないのだけれども。

学校は夏休みなので、しばらく東京の家で仕事など。その間に京都の家ではブチコさんが関節炎で通院。こちらは母に感謝。備忘録としては、佐伯洋江さんの個展が京都のタカ・イシイギャラリーで始まり、このあとロンドンに留学されてしまうので、会っておきたくてオープニングに出かけてきた。相変わらず佐伯さんはあんな感じで素敵だった。東京からクサナギ・シンペイさんも来ておられた。束芋さんともお話できた。ビジュアルからの白いお花は、Z先生が佐伯さんイメージでご近所の花屋さんで作ってもらったそう。真っ白の中に毒々しい赤、だけど今回の彼女の作品はパステルカラーでほんわりとやわらかく、しかもテクニカルになっていた。フシギな人だ、やっぱり。

東京に戻ったあとは、アレクサンドリア図書館のサイトで知ったd-laboセミナーで、小学館で辞書を32年間も編集してきた神永さんという方のお話を聞いてきた。日本国語大辞典を編集した方。かつてのイギリスには懲役刑として「辞書を編集する」という刑罰があったのだそうで、そんなお仕事を32年間されてきた方。お話はとても興味深かったのだけど、話せば長くなるので、またいずれ。ともあれ「日本語」の歴史を辿るこの辞書の編集を小学館という一企業が担っちゃってるのが不思議な気もした。翌日は横浜美術館に奈良美智さんの展覧会を見にゆく。ちゃんとまとめて原画を見たのは初めてだったのだけど、やっぱりよかった。翌日は「最強のふたり」という映画を見て来た。これで夏休みは終了。明日は京都に移動して大学に顔を出し、明後日からは後期が始まる。少しリフレッシュできたので、またがんばろ。

2012/8/18(土)18:16

ベルリン続き。(長いです。)

ユダヤ人という人たちについて、私はほとんど知らない。子どもの頃、日曜学校で聖書を読んだときに覚えた知識に毛が生えた程度〜つまり、旧約聖書の「出エジプト記」に書かれている、エジプトで奴隷として虐げられていたユダヤ人たちが予言者モーセにより「約束された土地」を目指し、エジプトを脱出し、四十年(だったかな)の放浪ののち、モーセがシナイ山で神から「十戒」を書いた石板を与えられその教義がユダヤ教の元になり、のち「どこか」に導かれ、どこかに定住したものの、その後いろいろあって祖国を持たないまま全世界に散らばり、その後シオニズム運動によりパレスチナへ入植し、イスラエルという国を築いた、という程度の雑なものだ。
彼らがなぜ虐げられてきたのかも謎だった。イエスキリストを裏切った弟子のユダがユダヤ人だったから?国を持たない民族が仕方なく選んだ「金貸業」という職業のせい?でもそれだけでどうしてこんなに憎まれるのかわからない。なぜ中東地域で未だに戦争が起きてしまうのか。聖書の時代から続く一神教同士の諍いが落とす影の長さが現代まで続いてしまう理屈も、極東の島国の黄色い猿の頭ではどうも理解できない。ヨーロッパをあちこち旅してときどき出会うユダヤ教の教会や墓を見る度になんとなく感じる「融通の利かなさ」と「頑固さ」(具体的には施設に入るときには必ず厳しいチェックを受けたり写真の撮影ができない等、もちろんそれだけではないけれど。)に常々興味はあった。虐げられるから頑なになってしまうのか、頑なだから虐げられてしまうのか。

ベルリンのユダヤ人博物館の3階から始まる「継続への道」は、ユダヤ人にまつわる膨大な(ほんとうに膨大な)資料群が展示されていた。まさに旧約聖書の世界から現代に至るまで。その展示品の物量の多さに加え、私をたじろがせたのは、説明書きの多さと長さだった。日本語イヤホンガイドがそれらをほぼ全部カバーしているらしいこともわかった。ユダヤ人の「とにかく理解して欲しい」という気持ちがここには溢れていた。ここは生半可な覚悟で見にくるところではないのだと悟った。それでも知りたいか、と自分に問いかけ、「それでも見るだけは見よう」と腹をくくって見学をはじめる。ユダヤ教について、ユダヤ人の習慣、生活(おうちの様子、服装、食べ物、そのほかエトセトラ)が年代を追って実にこと細かに説明されたあと、主にドイツ系ユダヤ人の歴史(どこからどのように来てここらへんに住み着いたというような)説明があり、その後の民族のあれやこれや、国のあれやこれや〜そのへんはもうヨーロッパの歴史が複雑な上、往々にして民族と国が一致していないので、「なぜそんなことになるのか」が私の頭ではついてゆけず、事実を追うだけで精一杯になる。ただ、ある時期(いつごろかは覚えていない。中世の頃?)はユダヤ教に則った平穏な暮らしをしていたらしいこと。そして1900年代初頭も、ドイツ系のユダヤ人にとって幸せな時代だったという説明だけは、膨大なインプットの洪水のなかにぽかんと浮かぶブイのように記憶に残った。「幸せな時代」のあと、黒雲が湧くようにナチスの時代がやってくる。展示品のなかに布屋の店先にあるような、くるくると巻かれた黄色い布があった。近づいてみると線画で描かれたユダヤの星型のなかに「Jude」(ユダヤ)の文字がプリントされている。星の回りは丁寧に切り取り線の点線が囲い、ここで切り取るとそのまま「ワッペン」になるしくみだ。モノクロ写真のなかのユダヤ人たちの胸にもこれが縫い付けられているのが見えた。そういうものがあったらしいことは知っていたが、実物の布の、あまりの工業品としての普通らしさ(まるでそのへんの手芸店の店先で売られていてもおかしくないような佇まい)が、逆にとても異様に見えた。このマークをデザインしてパターンを作り、無駄のないように整然と並べて布にプリントした人がいるのだ。ここで切り取れるようにと分り易い点線を入れたり、目立つための色を何色にしようとか、布をどうしようとか、布の幅や長さを、まるで職人のような真面目さで(もしかすると、ほんとうに職人だったのかもしれない。)淡々と決め、形にしていった人たちのことを想像する。その「職人」たちが作った「差別」のための目印の布。それは70年以上経ったいまでも色あせた感じもせず黄色くて、ポップですらあった。
圧巻は「死の行進」のときの写真と資料だった。傷付いた人、痩せこけた老人、彼らが道すがら夜に食べたという木の皮の説明、道ばたで倒れてしまう人、それを撃つ兵士の写真。やりきれないのはこれが終戦直前の連合軍にホロコーストがバレないための移動であったことだ。

階段の途中に、ぽかんと何もない空間があり(この博物館には、ところどころ、そういう部屋がある)そこを進んでゆくと前方からカチャーン、キーン、というような金属音が聴こえてきた。その音の方へ角を曲がると3階分ほどの吹き抜けの空間になっていて、そこには一面にいびつな丸い金属の板(厚み3センチくらい)が敷き詰められていた。その金属板には三つの穴があいていて、これがどうみても顔に見える。目に見える穴から流れる溶けた金属の「したたり」は涙に見える。それが大小何枚も敷き詰められていて、その上を歩けるようになっている。イタリア人の修学旅行の男の子たちがその上を歩きながらおしゃべりしていたので、私もおそるおそる「顔」の上を歩いてみると、少し踏んだけなのにびっくりするくらい大きな音が吹き抜けに響いた。一人の男の子がふざけながら板を一枚持ち上げて落とすと、ひときわ大きな音が響きわたり、係の人が慌ててやってきて男の子たちにおだやかな声で注意した。彼らがいなくなったあと、その「顔」を踏みしめながら何枚か写真を撮った。全て違う形をした、全て人の顔に見える金属板。大きなサイズは大人の顔、小さなサイズは子どもの顔。イヤホンガイドによると、これはイスラエルのアーチストによるインスタレーション作品〜「記憶のボイド」〜で、曰く「この作品から何を感じるかは、全て自由。あなた次第である・・」との言葉に「そんなん、決まってるやん。」と思わず関西弁が口をつく。

最後にニュルンベルグ裁判のときの映像が流れていた。裁判所に横づけされた車から降り立つ被告たちが次々と映し出される。ここでも彼らのあまりの「普通さ」に目がとまった。被告席に座る被告たちの動いているのを見たのは初めてだったが、淡々と座り、淡々と何かが語られる。この数えられる程度の複数の「戦犯」たちと、殺されてしまったユダヤ人の膨大な数のアンバランスさが、どうもリアルな感覚で結びつかなかった。このときに既にヒトラーは死んでしまっているけれど、もし彼がこの裁判に出廷していたら、小さなチョビ髭のしょぼくれたオヤジに見えたのかもしれない。

話は少し変わるが、この博物館の展示でとても印象深かった展示がもうひとつあった。それはテーブルほどの大きさの世界地図の上に光の線を飛ばすダイヤルがあり、見る人がそのダイヤルをまわして光を目的の国に向けると、その国に逃げたユダヤ人の数とその後の行き先(多くがアメリカだ)が世界地図の上に映像として映し出されるというハイテクなものだった。同時に脱出時の資料〜写真やパスポート等も見られるようになっていて、いろんな国の人が自分たちの国に向けダイヤルを回していた。ためしに私も日本に向けてダイヤルを回すと、少なくない数のユダヤ人(数百人ほどだったか。)が日本に逃れ、のちその一部がアメリカやカナダや上海に逃れていた。そのときに発行されたアリスという女性のドイツのパスポートに押された日本の税関の判子も見えた。

閉館時間になり、まだまだ見たりなかったのだが、仕方なく出口へ戻る。イヤホンガイドを返し、無事教員証を返してもらって、ふと出口の近くのショップに立ち寄ってみた。ドイツ語やヘブライ語の本がたくさんあったが、どうせ読めないからと諦めた。黒い服と黒い帽子を着せ、顔の両脇に細く垂れた黒い髪の毛まで描き込んであるゴム製の黄色いアヒル(お風呂に浮かべて遊ぶ、よくみかけるあれです)があったので、一瞬お土産に買ってみようかと思ったが、あげる人が思いつかなかったので、買うのをやめた。かわりに真っ赤なトートバッグを買った。フライターグのような頑丈な生地でできていて、買い物に便利そうなシンプルな作りだった。取手まで真っ赤で、建物の形(蛇のカクカク)をシンボルにしたプラスチック製の真っ赤なタグが銀色の鎖でついている。その生地の赤が、日本ではちょっとお目にかかれないほどきれいな赤で、レッドともマゼンダともスカーレットともカーマインとも言えないスカッとした軽薄でおしゃれな赤なのが気にいった。カウンターに持ってゆくと、年配の女性がそのバッグをぎゅうっと3つに折り畳んで小さなショップのビニール袋に押し込みながら「鞄を鞄に入れるのってへんよね」と言っているように笑った。表に出るととっぷりと日が暮れて、夕飯の集合時間に間に合うようホテルに急いだ。

2012/8/15(水)15:04

3月の研修旅行の旅日記が途中で頓挫していたので、ここいらでも少し更新おかねば、ということでベルリン続き。
バウハウスからの帰り、一人電車を乗り換えクロイツベルグ地区にあるユダヤ人博物館に行ってみた。以前からユダヤ人という人たちに興味があったことと、残すところあと一日となったベルリンの滞在時間では、美術館の多すぎるこの町で廻れる美術館には限界があることを悟り、とにかく行き易いところに行こうと諦めをつけたことが、月曜でも開いているこの博物館に私の足を向かわせた。
川沿いの駅で降り、円形の広場を持つ公園を斜めに横切り、大通りをしばらく行くと前方に壁に複数の切れ込みのある、見るからに痛々しい建物が夕日を浴びて金色に光っていた。建物に入ると、まず空港のようなエックス線の検査台があり、荷物とコートをトレイに預け、自分も検査のためのゲートをくぐらされた。無事、検査を終えて荷物とコートを受け取り、チケットを買い、イヤホンガイドを借りようとすると、今度はパスポートの提示を求められた。パスポートは持ち歩かないので、どうしたものかと困っていると、私の財布のなかにちらりと見えた大学の教員証を見つけた係の女性が「それは何?」と聞いてきた。カードを手渡すと、日本語しか書いていないそれの裏表をまじまじと見てから、どこかに電話をかけ、私の目を見ながら誰かと話をしている。しばらくして「オーケー。これでもいいよ。」とお許しが出た代わり、教員証は彼女の手元の引き出しに仕舞われてしまった。やっと借りることのできたイヤホンガイドを首からぶら下げ、地下への階段を降りて見学をはじめた。
イヤホンガイドによると、この建物はユダヤ人建築家「ダニエル・リベスキンド」によって設計されたものだそうで、上から見ると、ちょうど竹の輪切りをつなげた蛇のおもちゃのように、かくかくと折れ曲がった複雑な形をしている。最初の地下展示室は地面が傾斜した通路が鋭角的に交差していて、その通路の壁にはそれぞれ「ホロコーストへの道」「逃亡への道」「継続への道」とあった。最初に「ホロコーストへの道」をたどると、壁にはホロコーストの犠牲になった人たちの遺留品がぽつぽつと展示され、突き当たりには「ホロコーストの塔」の入り口があった。係の男性があけてくれた大きな入り口を入ると、すぐに背後で鉄の扉ががしゃんと閉まった。不規則な三角のコンクリートの部屋は、天井が3階ほどの高さの吹き抜けで、上部のスリットのような細長い窓から差し込む、わずかな光が届くだけの仄暗い空間だった。ここではエアコンも切られていてシンと寒い。外の音も聞こえない。一緒に入った(おそらく)イタリア人のカップルが出ていったあと、しばらく一人でこの空間でじっとして、上に見える手の届かない光を見上げていた。「ここで何かを感じろ」と言われているのだろうと思った。「アウシュビッツで私たちはこんな空間に閉じ込められていたのだ。」と言われているのだろうと思った。

しばらくしてここを出たあと、こんどは「逃亡への道」を辿る。突き当たりには中庭があり、そこにはコンクリート製の灰色の四角い柱(一辺150センチ、高さは4〜5メートルほど)が規則正しく並んで立っている。その数7×7=49本。ただし、それらは垂直ではなくみな少しずつ傾いていて、頭の上にのしかかってくるようだ。下の地面もうねっているため、見ていると水平と垂直がおかしくなり、酔いそうになる。柱の上にはオリーブの木が植えられていて、雑然とした緑が見えた。ここに迷い込んだときに感じる不安は、ホロコーストからは逃れられたものの、逃げた先の異国の地でのユダヤ人の不安な気持ちを表表しているのです、とイヤホンガイドが語る。

最後の「継続への道」を進むと、地下から一気に3階まで昇る階段に続いていて、ここからはユダヤ人の歴史を巡る展示になっていた。(続く)

余談。帰国後知ったのだが、この博物館の近くにあるテオドール・ヴォルフ・パークという公園は、ヴェンダースの映画「ベルリン天使の詩」で、ブルーノガンツ演ずるところの天使ミカエルが一目惚れするブランコ乗りの少女がいたサーカス団がテントを張っていた公園だったのだとか。知っていれば寄ったのに、と後悔。

2012/8/15(水)02:24

お盆休み。

一昨日は桃を買うため、八重洲の福島県の交流館に出かけてきた。ツィッターで福島に「あかつき」という固い品種の桃があることを知り、これはぜひ食べてみたいと思ったからで、私は福島県だけに限らず、関東一円の農産物については「基本、店に出回っているものは大丈夫だろう」と思っている。(第一、もうトシだし。)このことは前に放射線の研究をされている、関東の某大学の先生の講義を生で聞いたことが大きくて、その方は農家の方が持ち込んでくる農作物の測定をそれこそ連日のように検査されていたのだが、そこでわかったことは、土が汚染されていても農作物は放射性物質を取り込まないらしいということ、大人よりも子どもの方が排出が速やかであること、関東よりも関西の方が地層の関係で自然放射能の値は平常から高いこと等、だった。私は科学者が日々の地道な観察の上に得たこれらの結論を素直に信じたいと思う。当時はこの方に授業をお願いしていたので、何度か連絡を取ろうとしたのだが、連日出ずっぱりで農家の支援をされていたため、なかなか連絡がつかなかった。やっと実現した授業での先生のお話は、自分の目で現象に対峙してきた科学者の説得力のある言葉だったし、風評被害に対する先生の静かな憤りも感じた。

前にも書いたが、3.11の日、私はパリにいた。ホテルでテレビにかじりつきながら、映し出される映像を見つめながら、どうすることもできない不安に押しつぶされそうだった。行く先々で心配してくれる現地の人たちに、何もなくしていない自分が心配してもらうことを勿体なく感じつつ、でも一方でこうして「日本人である」ということだけで声をかけてくれる現地の人たちの気持ちが素直に嬉しかった。「ありがとう」と返しながら、帰国したら、がんばるつもりになっていた。「帰ったら、私もがんばるのだ」と思っていた。

帰りの飛行機のなか、学生がツィッターの画面を見せてくれた。そこに流れる政府と東電の責を問いつめる言葉を見たときの違和感はものすごかった。何に対する違和感か。雑に要約してしまえば「お前がなんとかしろ」的な当事者性を感じないメッセージ。まるで内輪もめのような言葉。「なーんだ。もっと大変なことになってるかと思ったら、ツィッターで身内を責めてる暇があるのか。」と思った。この違和感は、そのあともずっと続いている。

昨年、京都市が五山の送り火に被災地の瓦礫を燃やそうとした計画が住民側の反対で流れてしまったが、「被災地だからダメ」は、世界に縮尺を広げたときに「日本だからダメ」に置き換えられる。そのとき冷静に対応ができるのは科学の言葉。利権も人間関係もしがらみもない、怜悧冷徹な自然現象をよりどころにする科学の言葉。そういう意味で、計測して安全だと判断された瓦礫さえ燃やすことに反対する「何か」の圧力が怖い。科学者が(その質にもいろいろあるのだとは思うが)人の都合など関係のない冷徹な「現象」について観測し、計測してきたこと〜もっと遡れば、原子力について学ぼうと思い、その道に入り、研究してきた人たち、安定した電気を届けようとしてきた人たちへの想像力をなくしたまま、暴走する「何か」が怖い。あれら原発の廃炉には気の遠くなるような時間がかかる。それをできるのは、私のような絵描きでも音楽家でもなく、科学や技術を学ぶ人たちだ。その人たちが誇りを持ってその道に進もうと思えるようにすること、もっと根っこのところでは理系に興味のある子どもたちのための仕事をすることが、私の3.11以降の日本に対する当事者性だと思っている。(はぁ。これだけのことを書くだけでも、どんだけ疲れたか…。)

2012/8/12(日)16:16

東京のi-bookから更新できそうなので、こちらから。

お盆なので、しばらく東京におります。昨日は横浜の明治期の資産家、原三渓のお庭、三渓園というところに行ってきました。あまり予備知識なく行ったのですが、思いのほか楽しめました。あそこは昔の品のいいお金持ちが残してくれた別世界ですな。よい意味で「お金」の威力を見せつけられました。横山大観や下村観山が、ここに投宿してお絵描きしていたという部屋にも上がりました。あの時代に使用人としてでもいいから、あのお庭に点在するどこかの家の、狭い一室に住ませてもらって、庭の手入れなんぞしながらときどき絵なんか描いて、池の鯉に餌やったりしながらご主人さまに仕える生活ってのも、それはそれで幸せそうだ。蓮の花もきれいだったし。そういう枯れた生活に憧れてしまうほど、最近世事の事柄に急速に興味をなくしつつありますが、さて、これはいいことなのか、悪いことなのか。

その前の日は、とある方に会うために出かけておりまして、こちらも浮世離れしたお話をうかがって参りました。でも、将来形になるととても嬉しいお話で、やる気の奥の方にぽっと火がともるよう。何にせよ、必要としてもらえるのは、ありがたいことです。がんばります。はい、がんばりますとも。(抽象的表現ですみません。)